2015年4月8日水曜日

ノートルダム女学院 中学校高等学校 2015年度 入学式 学校長式辞

ノートルダム女学院 中学校高等学校 入学式

栗本嘉子学校長式辞

2015年4月8日 挙行


新入生の皆さん、ノートルダム女学院中学高等学校へのご入学、誠におめでとうございます。保護者の皆様、高いところからではありますが、本日はお嬢様のご入学、誠におめでとうございます。今後、様々な場面で、保護者様のご協力を頂戴することと思いますが、その節にはどうぞよろしくお願い申し上げます。

そして、今日特別にご臨席いただいているノートルダム教育修道女会のセントラル・パシフィック管区のシスターメリーアンオーエンズ管区長様、シスターダイアンペリー評議員様を始めとするご来賓の皆様、本日は、お忙しい中本校入学式にお越しになっていただき、誠にありがとうございます。心より感謝申し上げます。

さて、改めまして、新入生の皆さん、ノートルダム女学院へようこそ。皆さんは今、一つのこの場所で、同じ制服に身を包み、私の話に耳を傾けてくださっています。私は皆さんをこのようにお迎えできて、本当にうれしいです。皆さんは、晴れて本日から、ノートルダム女学院中学高等学校という家族、ファミリーの一員です。ファミリーは、偶然寄せ集められた人々の集団ではなく、意味をもって集まった、つながりのある共同体を意味します。このファミリーでは、一人ひとりが自分を信じ、自分以外の人々のことをお互い常に思いやり、愛し合いながら、一緒に成長していきます。ここでは、自分が一人勝手に生きているのではなく、多くの人との、ひいては地球上のあらゆるものとのつながりの中で生かされていることを学びます。そして、そのつながりの根底に、命の源である神様がおられ、私たちをこの上なく大切にしてくださり、愛してくださっていることを確信します。中学生1年生は今から6年後、高校1年生は今から3年後には、18歳のノートルダム・レディーに成長し、神と他者と自己に誠実さと愛深さをもって生き、自分に与えられたミッション、すなわち使命とは何かについて、世界をビジョンにしっかりと考え、それに向かって勇敢に歩み始める女性へと成長を遂げられていること、これが、ノートルダム教育の目標であり、校長としての私の願いです。

皆さん、私は今日まで桜の花が残ってくれていたらいいなあと願っていました。でも、地球の営みの中で、木々は成長を続け、新芽が吹き出し始めています。間もなく、新緑の季節がやってきます。皆さんはお感じになりませんでしたか。この何千、何万という桜の花々が一斉に咲き始めた時、いったいどこにどのようにして、木々は、これらの花々の開花の準備をしていたのだろう。私たちが寒さに震え、木の様子をゆっくりと見上げることもなく足早に通り過ぎていったあの冬の日々に、木々の内側では、着実に花の命を育んでいたのです。3月になり、ふっくらと枝の先端が脹らみ始めると、私たちは気づきます。ああ、桜の季節がやってくる。自然界は、静かに、無言で、着実に生への営みを休むことなく繰り広げる。私は、これを「内側の力」と呼びたいのです。内側からの力は、このように迸るような勢いのあるエネルギーを、静かに、無言のうちに、しかしながら非常にダイナミックに放ちます。花々は、優しく美しく、私たちを元気づけ勇気づけ、慰めもしてくれます。そして、さらには自らを果実に変容させる力も秘めています。決して押しつけがましくなく、謙虚に一筋の気持ちで咲いている。「花はなぜ美しいか。一筋の気持ちで咲いているからだ」という詩を残したのは、私の好きな八木重吉でした。

花や木が内側の力を秘めているものの例えだとすれば、戦争や暴力、武器や軍隊は、「外側からの力」です。規則が強い力をもつこともあり、経済格差が否応なしに社会的弱者を作り出すこともあるでしょう。この内側の力と外側の力のことを、私に気づかせてくれたのは、サティシュ・クマールというインド生まれのイギリスの哲学者でした。彼は、自分の内側にはたらく力をパワー、他者への強制力となる外側の力をフォースと呼んで区別しました。しばしば外側の力は強く、怖く、弱い者を作り出す。自分の内側からの力は、可能性を引き出し、命を育みつなげ、豊かさをつくる。私は、彼がこう語るのを読んだとき、私の信じるイエス・キリストは、このような内側の力を漲るようにもつ存在だったのだと思いました。彼には、優しいパワーがあふれていた。そして信じる人の内側の力を最大に引き出し、治らない病を癒し、見えない目を治し、弱く貧しい人々に、生きる希望と勇気を与えました。イエスに触れた人々は、体験したことのない大きな愛を知り、自分に内側の力があることを信じることができたのだと思います。

私がめざしたいノートルダム教育は、神様の愛に導かれて、皆さんの内側の力を引き出すものです。引き出し、創り出し、より豊かになっていくことを助けます。一つ、大事なことは、皆さんに信じてほしいということです。皆さんご自身の一人一人の内側に、すごい力が宿っているということを、信じてほしいということなのです。その力が可能性です。その力が、厳しい冬を乗り越えて、色とりどりの花々を開かせる。見るものを慰め、癒し、勇気を与える花々を咲かせる。やがては、自分を変容させ、果実を実らせる。その果実は、弱い立場に立たされている人々の助けとなり、慰めとなり、時には栄養になるでしょう。ノートルダム教育は、あなたにそのような内側の力をもった人になってほしいと願っています。

今日から、このファミリーの一員となられた皆さんは、ここで、よい出会いをいっぱい作り、たくさん学び、いろいろな豊かな体験をして、どうか、素晴らしい花を咲かせる準備をはじめてください。神様は必ずそれを助けてくださいます。一緒に信じて歩んでまいりましょう。

神様の祝福が皆さんの上に豊かにありますように祈ります。

2015年3月20日金曜日

ノートルダム女学院中学校 2014年度卒業式 式辞

ノートルダム女学院中学校 卒業式 式辞

2015年3月20日 

学校長 栗本嘉子


卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。
保護者の皆様、高いところからではありますが、本日はお嬢様の中学ご卒業、誠におめでとうございます。また、溝部名誉司教様を始めとするご来賓の皆様、本日はご多用の中、本校中学校卒業式にご参列いただき、誠にありがとうございます。

本日、皆さんは、3年間のここ女学院中学でのノートルダム教育を終えられました。今日はノートルダム教育があなたに伝えたい最も大切なことの一つを、この節目の時に共有しておきたいと思いました。

2012年4月、私が皆さんを初めてこの場にお迎えした入学式、私は壇上からこのように申し述べました。すなわち、「私たちは、単に偶然に集まっているのではない。ご縁があって、このように一人ひとりが呼ばれ、道のりを経て、ここに姉妹として集まったのです」、このようにお話ししたことを憶えています。それから3年の月日がたち、皆さんはすっかりノートルダム・ファミリーの一員として、お互いの名前を何度も呼び合い、微笑み合い、時には議論し合いながら、支え合い協力しあって、この共同体を創ってきました。そうです。皆さんは、この共同体の一員として、かけがえのない、大切な存在なのです。神様は、皆さん一人ひとりを名前で呼ばれ、憶えられている。失ったら探し出すまであきらめられません。そのことがこの学校でも実現しています。

そして、皆さんは、一人ひとりを大切に慈しみ愛してくださっている神から、大きな素晴らしい可能性を与えられている、その可能性は、いつか開花することを待っている、しかも誰かの喜びや幸せのために使われるため、開花することを待っている、そのことを信じてほしいということです。そしてご自身の可能性は、他者と連帯することで、より一層にその輝きを増し、神様に祝福されます。そのことを強く信じてほしいということです。

皆さんは、これまでの学校生活の中で、他者、すなわち、お友達と関わり合い、つながり合うことで成し遂げたさまざまな場面を思い出してください。そのことが本当だったとおわかりになるはずです。文化祭、体育祭、また、グループ・ワークで一生懸命協力し、一つの作品を仕上げ、そしてりっぱにそれらを社会に発信しました。自分のもてるそれぞれの力を結集した時、想像を超える輝きとなってそれを解き放つことができたことを忘れないでおきましょう。

人間は確かに、一人では決して強くはなく、むしろ、弱くてもろい存在です。時には、完全に無力であるかのように見えることもあります。日本中が大きな無力感、哀しみ、そして苦しみに覆われた東日本大震災から今年で4年が経過しました。今でも尚、復興は途上であり、癒えることのない悲しみに向き合っている人々が多くおられることを、私たちは知っています。猛威を奮う大自然の前に、私たちは確かにあの時、無力であり、多くの命の犠牲の前に、ただ頭を垂れることしかできなかった。そのことは事実であり、人間の力の限界を見せつけられたかのようでした。しかしながら同時に、報道は時を追って私たちに知らせました。あの時、あの瞬間に、一人の人が示した勇気ある行動、一人の人がとった生きるための選択、寄り添って励まし合い作り出した温かさ、泣く人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜びながら、大き過ぎる試練の中で、それを乗り越えようと連帯し始め、目を見張るような力強さを示しました。

一人の高校生のストーリーを分かち合います。彼女はこの4周年の追悼式で、宮城県代表として追悼文を発表した方です。当時15歳だった彼女は、瓦礫に埋もれて動けない母親をどうしても助けられず、自分は見捨てて生き延びたのだと自責しながら、震災後、深く悩み苦しんだ人の一人でした。自分を責め、哀しみの癒えない彼女に、実に多くの方々が共感し励まし、国を超えてまでの対話を果たし、徐々に自分を受け入れられるようになり、そしてこのことで失ったものの大きさと同じぐらいの素晴らしいものを、自分はこれから得ていきたい、そして同じように苦しんでいる人々に自分の気づきを分かち合いたい、このようにお話しされていたのを聞き、私は人間とはなんと素晴らしい力をもっているのだろうと感動いたしました。苦しみをばねにして、一人きりではなく人々の連帯により、自分の存在を取り戻し、高く大きく成長できるようにどのような状況にあっても招かれているのだと感じました。

確かに私たちは、あの日以来、もろさや弱さという私たち人間の限界と共に、神の似姿として私たちに与えられている崇高さ、真実さ、気高さ、美しさ、強さ、優しさ、素晴らしいものを生みだしていく創造力も同時に与えられている。そしてそのこと故に、人間は連帯し合って決してあきらめず、希望を持って、試練を乗り越える勇気と力を頂いているのです。それは、神様が常に、あの時にも、私たちと共におられて、哀しむ私たちを慰めようとされ、一人ぼっちになってしまった人を探し出そうとされ、泣く人のそばでご一緒に泣いてくださっていたからだということを、私は強く信じています。

今日で、ノートルダム女学院中学校での三年間を終え、新たなステージにさしかかろうとする皆さん、皆さんのこれからの青春の時間は、煌めく宝石のような時間です。それは意外と短く、でも確かな土台となって、今後の皆さんの人生を支えるものです。どうか、今のこのかけがえのない十代の青春の時間を、心を尽くして魂を尽くして、神と他者と自己に誠をもって生き抜いてください。心から対話し、心から共感し、つながり合って共に生きる。すべてが失われても、最後に残るものは、そうやって培った心と心のつながりであり、それが神が最もお望みのことであるということを胸に刻んで、次の扉を開けてください。

神の祝福が皆様の上に豊かにありますように、お祈りいたしております。

2015年3月2日月曜日

ノートルダム女学院高等学校 2014年度卒業式 式辞

ノートルダム女学院高等学校
2014年度卒業式 式辞
学校長 栗本嘉子


卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。また、保護者の皆様、高いところではございますが、お嬢様のご卒業、誠におめでとうございます。六年間、三年間、ノートルダムの心に共感し、ご同伴頂き、誠にありがとうございました。パウロ大塚喜直司教様、シスターモーリン和田理事長様を始めとするご来賓の皆様、本日は、ご多用の中ご臨席賜り、心より感謝申し上げます。

さて、皆さんは第60期卒業生となられます。ノートルダムでの最初の卒業式から数えて今年が第60回になります。卒業生は1万人を優に超えました。皆さんは明日から、それぞれの社会の場、共同体の中で、ノートルダムの精神を生きておられる先輩方の仲間入りをされます。 18歳になられ、本日巣立った後は、神様によって置かれたそれぞれの場所で、ノートルダムの精神を豊かに、また創造的に生きてほしい。それが、私の最大の願いです。

ノートルダムの精神とは何だったのか。今日、巣立つ日に、今一度それを振り返り、皆で共有しておきたいと思います。いろいろな機会に、私はいろいろな表現で皆さんにお伝えしてまいりましたが、最後になる今日、これを校長からの「二つの願い」という形で、皆さんにお届けしたいと思います。

まず一つめの願いです。皆さんは、神からお一人おひとりに与えられた豊かで無限の可能性を強く信じてほしいということです。神の似姿に作られている私たち人間は、まず神から特別に愛され、慈しまれて命を与えられました。神から「生きよ」と言われ、私たちが命を受けた時、同時に一人ひとり個別に、その使命をも与えられました。ノートルダム女学院での三年間、六年間の教育は、その使命とは何かを探し求める旅路でした。あなたの素晴らしさが何であり、あなたはどのように人々や地球環境と関わり、どのような人間になっていくのか、その可能性を模索する旅路でありました。


私たちは、この地球共同体の一員として、お互いに支え合って生きています。聖書では、「一つのからだ」という言葉で、このことをわかりやすく私たちに教えます。「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶ」と書かれている箇所を、コリント書に見つけることができます。私たちは、自分の可能性を信じて、その開花を目指しながら一生懸命生きようとする時、神に属する者として、一つのからだの一部になり、その使命を見出すのです。その時、自分に与えられた使命は、自分の利益のためではなく、他者の幸福のためにあるということ、そのために不可欠なのは、対話の心と共感の感性であるということを、ノートルダムではあらゆる機会をとおして、皆さんに伝えてきました。どうか、これからも、無限の愛を注がれる神から頂かれたご自身の可能性の開花を信じ、世界でたった一つしかないご自身の賜物を見つけ、それを使って、他者の幸福のために生き抜いてください。

そして二つめの願いです。どうか、ノートルダムで学ばれた皆さんは、自ら行動し、神様の平和のつくり手になってください。「平和を求める祈り」を、毎日ともに祈ってきた皆さんは、「平和」の意味が、単に戦争の対義語としてではなく、私たち個人の選択から成るものであることをよくご存じです。その平和は、他者や世界に開かれたものであり、創造的に勇気をもって正しい方向を選択し、行動することであるということ、必要とされている人、必要とされている場所に自らを差し出すために、「出向いていく」ための心の平和であるということを、皆さんはノートルダム教育の中でしっかりと学ばれました。

教皇フランシスコは、そのご著書「使徒的勧告 福音の喜び」の中で次のように述べておられます。

「『出向いて行く』教会とは、門の開かれた教会です。隅に追いやられている人のもとへと出向いて行くことは、やみくもに世界を駆けずり回ることではありません。足をとめる、他者に目を注ぎ、耳を傾けるために心配事を脇に置く、道端に倒れたままにされた人に寄り添うために急用を断念する。(中略)私は出て行ったことで(中略)傷を負い、汚れた教会のほうが好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです」


昨年の待降節の雨の午後、校門前のマリア像のそばに皆で建てた白い四角柱、シャローム・ピース・ポール。そこには、赤い文字で、“Peace in our homes and communities” と書かれています。「私たちの家庭に、共同体に、平和があるように」という意味を込めて。シャロームという名が表すとおり、私たち一人ひとりが、神、他者、そして生きとし生けるすべてのものとの関係を、しっかりと神様が望まれるとおりに保っていること、そのために行動する、それを、自分の近くから始め、やがては地球共同体の平和に貢献するという決意。その象徴でした。学校の登下校時、このピースポールの前を通過するたびに、自分の心を調べ、平和のないところにそれを自ら作り出すことができる人になる約束を皆さんと共有しました。
私たちの生きる現代社会は、簡単に解決することができない難しい問題が山積しています。グローバル化する世界にあって、テロの恐怖、資源の枯渇とその奪い合い、富の不平等、貧富やそれに伴う教育機会の格差、地球環境の悪化など、一言でいえば、私たち被造物の命の存続に対する脅威に押しつぶされそうです。一人の力ではどうしようもないように見える、圧倒的な負のスパイラルです。これに、いったいどのように、立ち向かっていけばよいのでしょう。

人間がおごり高ぶることをやめ、自分たちの限界を受け入れ、憎しみや復讐の気持ちを和らげ、愛と許しの心でお互いを尊び、対話を深め、ともに命の方向に向かうことは、この負のスパイラルに対して、平和のスパイラルを生み出すことになります。そして、今こそ、私たち女性がまず、神がくださった命の尊さ、育む喜び、命がつながっていくことへの希望を確信し、その喜びと希望を生きながら、それを次の世代に伝えていく役割を担っているように、私には思えてなりません。

卒業生の皆さん、このように私がこの壇上から皆さんに向かってお話しすることも、もうこれが最後になります。申し述べた校長の二つの願いをどうか心に刻んで、世界の海原に向かって勇気をもって漕ぎ出してください。神様は必ず、あなた方と共におられ、どのような困難があっても、それを乗り越える強さをあなたがたに与えられるでしょう。しばらくは、母校を忘れてしまうほどに、一人ひとりが置かれた場所でご自身の賜物を見出しながら精一杯働き、神の平和の作り手として生きてください。

神様が皆さんの前途を豊かに祝福してくださいますように祈ります。





2014年10月11日土曜日

ノートルダム女学院中学高等学校 創立62周年記念式典 式辞


 

私たちは今ここに、ノートルダム女学院中学高等学校創立62周年を共にお祝いするために集まっております。
本日は、このように多くのシスター方、またご来賓の皆様に見守られながら、この喜びの時に共に与ることができますことを、神様と皆様に心より感謝申し上げます。いつもノートルダム教育の実現のために、心からの祈りとお導きを頂き、誠にありがとうございます。
保護者の皆様、本日はようこそお越しくださいました。私どもを信頼して、大切なお嬢様をお委ねになって頂いた保護者様の、その信頼に支えられて、私どももまた今新たな一歩を踏み出そうとしています。今日、ノートルダムの大切な心を皆様と分かち合うことができましたら、これ以上の喜びはありません。
生徒の皆さん、創立62周年の記念を、皆様とここでこのようにお祝いすることができて、私は本当に嬉しく思っています。皆さんは、63年めを生きる本校の、最先端を担う人々です。

さて、創立記念日は、私たちの足元を見つめ直す日、どのような土の上に私たちが立ち、その土はどのように耕されて今日あるのか、そのことを思い起こし、そして、その土の上でこれまで、様々な偉大な神様の業が行われたことにたいして、心を躍らせ喜びあう時でもあります。そして、さらに、創立記念日は、新たに、私たちがどの方向に向かって歩み出せばよいのかを確認し、決心する日でもあります。
今日のこの日に、私は生徒の皆さんに是非伝えたいメッセージがあります。これをよく聞いて、理解するだけではなく、このように生きたいと決意ができ、そして、そのように生きる努力をするあなた方は、必ず、今日のこの創立記念日が、あらたな出発となるはずです。この私の式辞と、後に続くミサとシンポジウムは、その意味で、皆さんに、決意と感謝を促し、ノートルダム生としての行動指針を与えるでしょう。与えられるメッセージを心の耳で聴き、受け取ってください。今日を貫く大きなテーマがあります。「来て、見なさい」。これは、ヨハネによる福音書一章からの引用です。
今日、あなた方は、イエスと出会います。あなたは、イエス様がとても偉大、とても素晴らしい、畏れ多い、私などが近づけるような、そんなお方ではないと思いこんでいる。でも、同時に、イエス様に少しでも近づいてみたい、あの優しい、温かい、深い眼差しで見つめられたい。私の手に、肩に、触れて頂きたい。何か、関わりをもちたい、近づきたい。だから、弟子たちのようにあなたはイエスに問いかけてみる。まずはイエス様が住んでおられる場所を。イエス様が食べたり、休まれたりする場所を、そこから出かけて人々の中に入っていかれる、そのベースの場所を。「主よ、どこにお泊まりですか?」と。
イエスはこちらをじっとみて、そしてお応えになりました。「来て、見なさい。」
学校でお昼休みの終わりに毎日かかる曲は、この場面が曲になったものですね。With Christ というタイトルです。今日のミサの最後にもご一緒に歌えることが嬉しいです。歌詞はこうです。「来てみなさい、私が生きるところに、来て交われば、私もそこにいる。Come and see, 恐れないで、光もとめ、手を伸ばして、Go with me、歩き出そう。愛することを始めるために。」
この歌は、皆さんにこう歩んでいってほしいという私の願いを、実に分かりやすく伝えています。
「来て見なさい。」これは素晴らしいinvitation です。これに勝る出会いへの誘いはなく、体験もありません。こんなに情報が溢れる世の中にあって、実際に自分の足で行くという行為は特別です。イエス様からみれば、来なさい、ということですが、あなた方からみれば「行ってみる」、「見てみる」そして、「交わってみる」。そこには恐れがあってはならない、光は「希望」です。希望を求めて、みずからの手を伸ばす。希望のないところ、いわば絶望の中にあっても、手を伸ばして希望を得る。皆さん一人ひとりが、神様の希望を映し出す人になっていく。それは、「平和の祈り」で皆さんが毎日唱えている「闇に光を、絶望のあるところに希望をもたらす者にしてください」という祈りそのものです。そして、Go with me、イエスと共に行こうと、イエス様が誘ってくださっている。行って何をするでしょう?愛することを始めるのです。
「愛することを始める。」これこそが、ノートルダム教育そのものです。それが、62年前に本校ができた理由であり、ミッションそのものであり、私たちのゴールでもありました。「愛することを始める。」181年前、ドイツで最初のノートルダムを創設された我々の母、マザーテレジアゲルハルディンガーも、「愛すること」を始めようと、決意された方です。私は常にあなた方に言っています。愛することは、易しい、楽しい、おもしろい、そればかりではない、愛することは、時には辛い、難しい、面倒くさいこと。でも、ノートルダムは皆さんに教えます。どんな困難があろうとも、愛することを始め、愛することを貫き通す。愛することは、決意です。コミットメントと言います。イエスは言われました。「友のために命を捨てる、これよりも大きな愛はない。」愛することは、そこまでに至るとイエスは言われています。好き嫌いではなく、決意なのです。
では、愛すべき「友」とはだれか?どこにいるのか?ここからが、クライマックスです。皆さんは、多くの人々との関わりの中で生きている。皆さんの保護者、皆さんの兄弟姉妹、親戚の方々、こういった血縁関係以外にも、皆さんは実に多くの人々に支えられ、様々なことを分かち合いながら、お互いを大切にし合いながら、今を生きているということができます。今後、この学校を卒業したら、益々、出会いは多様化することでしょう。それらの出会いを一つひとつ大切にしてください。それは皆さんの糧となり、宝となるものです。そこで、皆さんに一つ、新しい扉をお示ししましょう。知ってほしいことなのです。

私たちはかつてのどんな時代にもあり得なかったことを毎日体験しています。私たち自身のこと、他者のこと、この社会のこと、この地球のこと、それらについて、以前よりももっと正確に幅広く知ることが可能になっています。私たちは簡単にすばやく、私たちのこの地球上どこでも行くことができる。また、地球の裏側に住む友人にも、即座にメッセージを送り合える。溢れるように提供されるあらゆるジャンルの情報は、上手く取捨選択するすべを知れば、私たちの手の中に、正確に、素早く、充分という量を携えてやってきてくれる時代です。世界がフラットになり、国境線、通貨、言語、食文化、生活習慣など、その国を国として成り立たせるためのすべての境界線が溶け始めています。世界が小さく縮んでしまったかのような、私たちが万能の翼をもらって、すべてにアクセスできるような期待をもつ時代です。時は、グローバル時代なのです。

しかし、一見素晴らしい、めざましい、世界が一つになったように見えるかもしれないこの地球で、私たちは自分たちで落とし穴を作ってしまっている。その中に多くの人々がすでに、落ち込んでしまっていて、這い上がることができないでいる落とし穴です。すなわち、世界市場では、深刻な格差が拡がっています。アメリカ、ヨーロッパ、日本は、エチオピアやハイチ、ネパールよりも100倍以上豊かだと言われている。先進国は、過去100年で発展してきましたが、途上国はどうでしょう。インドや中国が急速に発展している、でもその行動を取れない国々があります。グローバル化のひずみの陰で、周辺に押しやられている人々について、私たちはどう考えればいいのでしょう。なぜ、このような格差が拡大する一方なのでしょう。弱い者ではなく、強い者が心地よく便利に生活する地球社会。みんな強い者になりたがって、弱い者が置いてきぼりになってしまっている。どういった価値観が、どのような経済構造が、それを生み出すのでしょう。それをまず学び、考えることが、愛することを始めるための第一歩かもしれません。

日本国内を見てみましょう。皆さんと同じ年くらいの若い世代であっても、その中の意外に多くの人々が、皆さんの暮らしと同じような豊かな暮らしをすることができていません。日本社会は豊かですが、この社会がさらに豊かになり、一般的な水準が上がっていけばいくほど、その水準から落ちこぼれてしまっている子どもたちが、実に6人に1人の割合でいるということが、厚労省の調査でわかっています。まさに、自分たちで自分たち自身のことを守ることができないほど貧しかったり、非力であったりする。私たちは、それについて、どう考えるべきでしょう。ここでも、弱い者ではなく、強い者中心の考え方で、ますます便利に、益々豊かになっていく現実があります。

ノートルダム教育を受ける私たちが、愛することを始めるということは、実に、このようなことに向き合っていく、自分たちに関わることとして捉えることができる、という共感の心を自分の中に育てて行くことであると思います。弱い人々を中心にして、彼らを忘れない、彼らの幸せのために、自分ができることを見つけ、行動する。そしてそれを続ける。

今日は、ミサの後で、私たちの第3部があります。これは、一人の女性の生き方が軸になっています。辻村直さんという東ティモールの国際公務員の方の生き方。彼女は、もう17年以上も東ティモールで、自分のすべてを現地の人々の生活のために捧げつくしておられる方です。今日、登壇してくれる3人の皆さんの先輩たちは、その彼女に影響を受け、自分たちも現場に行ってみようと決意できた方々です。その彼女にだれかが尋ねました。辻村さん、一体いつまで、あなたは東ティモールで働き続けるのですか?そしたら、彼女はこう答えました。私の仕事が終わりになる時は、ここでの私の存在がゼロになる時ですと。必要とされなくなる程彼らが充分満たされる時、私の存在はゼロになる。そうすれば、私の仕事は終わりです。
彼女のこのことばは、これからの私たちの行動指針になる言葉だと思いますから、私の話の最後をこの言葉で締めくくりたいと思います。皆さんは、このグローバル社会にあって、自分の使命を生きて行かれる上で、自分の存在をゼロにするまで、その使命を生きて下さい。それが、本当の意味で「愛する」ことだと思います。そして皆さんお一人おひとりが、そのように愛する人になってくださること、それが校長としての私の願いです。

これをもちまして、式辞といたします。

2014年2月28日金曜日

2013年度卒業式 式辞

卒業生の皆さん、本日はおめでとうございます。保護者の皆様、高いところからではありますが、お嬢様のご卒業、誠におめでとうございます。本日のお喜びの日を、ここでこのように共にできることを、心より幸せに思っております。パウロ大塚司教様、シスターモーリン和田理事長様を始めとするご来賓の皆様、本日をこのように共にしていただくことは、私たちの大きな喜びでございます。誠にありがとうございます。

 卒業生の皆さん、このように私がこの壇上から皆さんに向かってお話しすることも、もう、これが最後になります。クラスメートと肩を並べてこのように立ち、同じ空気を吸いながら、この場に共に存在する、この日この時はもう二度と巡り来ない。私たちの生きる命は、その一回性に満ちたものです。普段はそのことに思いを馳せることがなかなかできない私たちですが、でも皆さんは、今日の時が近づくにつれ、そのことを意識し始めました。このホームルームで、この廊下で、この場所で、この友たちと当たり前のようにして時を過ごし、他愛のないことで笑い合える時間がもう、確実に終わりに近づいている、そう思うにつれて、その時間が愛おしく、その友を愛おしく、自分自身を愛おしく感じる気持ちが募ったことでしょう。一回限りで過ぎ去るすべての一瞬、その有限の時間と空間の中にあって、あなた方は、このノートルダムの学び舎で、神様があなた方一人ひとりに下さったかけがえのない真理に気づきました。その真理とは、この世のものがすべて過ぎ去っていく中で、決して過ぎ去らない、終わらない、朽ち果てないものがあるという気づきです。皆さんが今日、未来への扉を開かれる前に、最後に、そのことを振り返りましょう。いったいノートルダムは皆さんに何を伝えてきたのか。
 ノートルダム女学院はあなたに、この世界であなたは決して一人ではなく、多くの人々の愛の中でつながり合って生きているのだということを、あらゆる機会を通して知らせてきました。あなたをこよなく愛し、喜びとご苦労の中で大切にお育てになった保護者の方々、何気ない日常の中で、楽しかったことや辛かったことを共にしたかけがえのない友人たち、そして、どんな時もあなたを励まし勇気づけることを忘れなかった先生方職員の方々、それらの出会いの中で、ノートルダムは、あなたに伝えました。これらの温かく優しい眼ざし、あなたのつぶやきを聴こうとする耳、あなたが大事なのだと叫ぶ声、一緒に走ろうとつなぐ手、一緒に休むために下ろす腰、まるごとあなたを抱きしめる腕、あなたが弱い時に背負って歩む脚、それらはすべて、愛そのものである神からのものであったことを。神が私たちを先に愛され、神が私たちに生きてほしいと願いながら、命と愛、知恵と勇気を与え、素晴らしい出会いの数々を育まれ、私たちは一人残らず、その神のもとで、愛する人へと成長していくように招かれたのだということ、そのことを、知ってほしいと願い、伝え続けてきました。
 さらにノートルダムは、あなたに、世界を見るビジョンを持ち、ものごとを選択する基準を育て、その時その場で最もよいものを自分で選び取って前に進むこと、それができることが真の自由なのだということを教えました。そしてその自由を、自分の利益のためではなく、神と他者の幸いのために使うこと以外に、真の幸福はあり得ないということも、あなたに告げ知らせました。日々の学びは、真の幸福を得ることをゴールとする旅路、神から与えられた一人一人異なる賜物を見出す旅路であり、見つけた賜物をフル活用しながら、この地上で与えられた命をどうぞ精一杯生きてほしいという願いを、私はあなたに抱き続けました。
 私の大好きな文章を、今日皆さんに分かち合います。フランス人のイエズス会司祭で、古生物学者でもあったテイヤール・ド・シャルダンの考え方を、わかりやすく表している文章として、私は今日、あなた方と共有することが大変ふさわしいと感じました。神と宇宙と人類についての彼の考え方に、私は大学時代に出会い、深く感動しました。神学と科学との和解を可能にした人の中で、最も影響力のあった者とも言われました。

「私たちは全人類の初めから、世の終わりまで生きとし生けるものが関わる一つの織物を裏側から織っているようなものだ。裏から織っているので、自分に与えられた個所がどんな模様かははっきりとはわからない。けれども、全人類の終わりが来た時に、全人類が関わった一つの織物は、私たちに表を現わして掲げられる。そのときには、自分の織った個所が明らかにわかる。全人類が織り成す織物が見事な芸術品になるかどうかは、あなたにかかっている。あなたが‘自分なんて’と言いながら自分の受け持った個所をいいかげんに織ると、織物の質が変わっていく。あなたが自分の織物を裏側からみているとき、自分の使命が何だかわからないかもしれない。しかし、今ここで自分を大切にしながら与えられた能力を生かして、他の人とのよい関わりに焦点を合わせ、調和と一致をめざして働く時、それは見事な質の織物となる」


 最後に、私は皆さんに願いたいと思います。あなたは神の愛の中で生まれ、あなたの青春の日々は神の愛の中に豊かにありました。これからは、あなたは、愛する人としてどうか、あなたの賜物を生かしながら、出会うすべての人々にとって、光であり、希望となってください。この世界には、孤独な人、苦しんでいる人、弱い立場に押しやられて泣いている人々がたくさんいます。あなたのすぐ近くにも、そして遠く海の向こうにも、彼らは、あなたが来るのを待っています。まなざしをしっかり神に向けて進む時、神はそれらの人々の存在を、あなたに知らせてくださることでしょう。どうか、それらの人々の隣人となり、彼らを愛し抜き、彼らにとって光となり、希望となってください。ノートルダムで教育を受けたあなたには、それがおできになると私は信頼を持っています。
さあ、私が話すべきことはすべて話しました。これが最後です。でもこれは始まりです。聖母マリアの色のガウンを身にまとい、新しい扉を開けて、未知の世界にそれぞれ飛び立ってください。今からしばらくは、後ろを振り返らないで、前進あるのみです。では、行ってらっしゃい。
 神様の祝福が皆さんの上に豊かにありますように心からお祈りいたします。

2013年4月6日土曜日

ノートルダム女学院中学校・高等学校 入学式 学校長式辞


 新入生の皆さん、ご入学、おめでとうございます。保護者の皆様、本日はお嬢様のご入学、誠におめでとうございます。ご来賓の皆様、ご多用の中、本校の入学式にご臨席賜り、誠にありがとうございます。
 さて、改めまして、新入生の皆さん、私は、皆さんお一人おひとりを、ノートルダム・ファミリーのメンバーとしてお迎えできることを、心から嬉しく思っております。皆さんは、様々な道を通って、今、ここに集って来られました。私たちは、今日たまたま出会って、すぐまた散り散りばらばらになってしまうのではありません。これから私たちは、このノートルダムという家で、一緒にいろいろなことを学び、発見し、成長して行くことに招かれているのです。私は信じています。皆さんをここに招いたお方がいらっしゃるということを。「あなたの場所はここなのですよ、ここで一輪の美しい花となって咲いてください」と優しく導かれたお方がいらっしゃるということ、私は信じています。そのことを今日、あなたに伝えたいと思います。あなたが中学校の3年間、高校での3年間を、ここで喜びながら成長し、自分に何ができるのかを探し、自分の力を、自分の時間を、自分の命を、だれかのために喜んで使うことのできる人に成長していかれることを、だれよりも望み、それを待っておられるお方を、私は神と呼びます。
 
 ノートルダム女学院は、皆さんが生まれるずっと前、60年も前に、神が私たちを愛して下さっている、そのことに気づいてほしい、という熱心な思いひとすじで、アメリカからはるばる来られたシスター方によって建てられた学校です。それから60年、ただ神への熱い思い以外に何も望まず、人々、特に若い皆さんの教育に奉仕したいという、最初のシスター方のミッションへの熱意が受け継がれ、ノートルダム女学院をここまで成長させました。人々は、これをミッション・スクールと呼びます。ミッション・スクールである本校で、皆さんは、一人一人の人生の土台となる考え方や生き方を学びます。ノートルダムが、学校生活を通して皆さんにどうしても伝えたい、大切なことを、私は今日、皆さんにお話しましょう。私の今からの話は、二つの問いかけに応えることになります。一つめは、ノートルダム女学院は、どんな学校か、という問いかけです。そして、二つめは、ノートルダム女学院で、私たちは、何のために、何を学ぼうとしているのか、という問いかけです。

 ノートルダム女学院は、どんな学校か、この答えは、「みんな一人ひとりが、日々、愛することを学んでいる学校である」ということです。神に愛されて生まれた皆さんは、一生を愛されるだけで終わることは決してありません。いつかは、生きることの最終目標である、愛することのできる人になるように招かれています。けれども愛することは、決して簡単なことではありません。愛するとは、好きな人、気の合う人と仲良くするということだけではない。好きな人、気の合う人の数をどんどん増やしていくことだけでもありません。愛するとは、時にはそのために、自分の特別に大切なものを使ってしまわなくてはならないこと、意志の力が必要なこと、苦しいこともあるでしょう。でも、私たちが本当に愛することのできる人になりたいなら、神はきっと助けて下さいます。そして、あなた自身を、だれのために、どのように使っていくのか、必ず教えてくださいます。
それは、二番目の問いかけに応えることにもなります。この学校で、何を、何のために学ぼうとしているのか。それは、この学校がお手本にする、イエス・キリストの生き方です。そして、イエスのお母様であるマリア様の生き方に、深く関わります。すなわち、困っている人、弱い立場に立たされている人、助けが必要な人に、自分の大切にしている何かをそっとさし出し、その人のために生きる。ノートルダムで学ぶ皆さんは、神に導かれながら、一人ひとり、そのような人になることを学んでいくのです。皆さんの先輩である上級生も今、あらゆる機会を通してそのことを学んでいます。それは一生かかる長い道のりです。だから、実は、私自身も、先生方も学んでいます。職員の方々も学んでいます。「愛する」ことは、大人になったからといって、自動的にできるようになるものでは決してありません。ゴールに向かって失敗しながら成長を続ける中で到達できる、最高の目標だからです。ですから、この遠い目標からみれば、先生方職員の方々も、あなた方よりも少し前を歩んでいるに過ぎないのです。でも一歩の違いは確かに大きい、だから、皆さんは、教職員の方々から、上級生の先輩から、たくさんたくさん、学んでください。世界をもっと知ってください。困っている人々が、どこにいるのか探し出すためです。望まずして弱い立場に押しやられている人々が、どこで泣いているか、何に苦しみ、何を嘆いているかを知るためです。そしてこの宇宙は、どのようにしてでき、今どう成り立っているのか、この自然環境は、どうすれば保っていけるのか、人間同士ばかりでなく、人と自然は、どのようにしたら本当の意味で支え合い、健全につながっていられるのか、それらをしっかりと知るためです。皆さんがこれから、中学で、高校で勉強するのはこのためなのです。自分にできることをしっかりと見つけてください。それが「学習」の意味です。皆さんの、そして私たち全人類に課題として与えられている「学び」の真のゴールです。そして、このプロセスは、私たちを愛してくださった神に応えて、愛する人になっていくために必要な、ご自身への糧となるでしょう。ノートルダムの教育は、すべて、この「愛すること」に、向かっているといっても過言ではありません。
 新入生の皆さん、今日から、私たちはノートルダムという家族のメンバーとして、一つ屋根の下で、自分と他者を大切に慈しみながら、ご一緒に道を歩んでまいりましょう。神はいつも必ず、私たちと一緒に歩んでくださいます。神が共にいて下さることに信頼して、一日一日を丁寧に生きてまいりましょう。今日からの学校生活を通して、皆さんの上に、神様の祝福が豊かにありますようお祈りします。



2013年3月22日金曜日

ノートルダム女学院中学校 卒業式 学校長式辞


卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。
保護者の皆様、高いところからではありますが、本日はお嬢様の中学ご卒業、誠におめでとうございます。また、溝部名誉司教様、シスター和田理事長様を始めとするご来賓の皆様、本日はご多用の中、本校中学校卒業式にご参列いただき、誠にありがとうございます。

本日、皆さんは、3年間のノートルダム教育を終えられました。今年度2012年度は、ノートルダムにとっては、創立60周年の節目を迎えた大切な年でした。60年というと、皆さんの想像もつかない長い年月かもしれません。でも、この60年間、変わらずにノートルダムがいつの時代にも伝え続けてきたことは、やがて、ノートルダム女学院中学校の深い知恵の源となりました。卒業に際して、皆さんにもう一度それらを伝えます。ここにいる皆さんの大半は、さらなる3年間をノートルダムで過ごされますが、中には、ノートルダムを今日、出発するという方々もおられます。その方々も含めて、皆さんのかけがえのないここでの3年間の学びを、どうか、一生の糧にしていただきたいと思います。

この世界は、そしてこの宇宙は、すべてを超える大きな愛そのものである神によって創造されたと、ノートルダムはあなたに知らせてきました。愛によって創られないものは、命として存在することは決してありません。星も、海も、山も、草木も、花も、空の鳥も、地の動物たちも、そして、私たち自身も、生きとし生けるすべての命は、大きな愛によって創られ、だからこそ互いに連鎖し、つながり合って育まれ、成長し、そして、この世界での使命を得て、それを果たし、そしてやがては愛に帰っていく。かつて、朝礼の時間だったかに、あなたの命は、お父様、お母様、その方々のご両親、そのご両親と、さかのぼって一体何人の人々の存在によって可能になったのかという話をしたかと思いますが、それはそれはおびただしい人々が、あなたの命の存在のために深く関わり、その中の一人でも違っていたら、今のあなたは存在しませんでした。一つの命の誕生に、どれだけの人々の人生と、出会いと、生きざまが関わっているか、その気が遠くなるような、でも、真実の愛の連綿たるつながりこそが、神の愛の呼吸であり、神の愛の時間であり、神の愛の証しです。ですから一つの命はこんなに尊く、その存在はあまりにも重いのです。あなた方はお一人おひとり、ここノートルダムで、そのことをしっかりと学んでおられます。

あなた方の命は、この世に望まれて存在し始め、まだ15年ほどしかたっていません。ですから、ご自身に何ができるのか、ご自身の可能性はどこにあり、どこで花開くのか、それを今、皆さんは模索しています。一人ひとりは、神から使命を受け、それを果たし、神のもとに戻る、あなた方は、どうか神に聴いてください。「私に何を望まれていますか。私はあなたから頂いた命を、だれかのために、何かのために、どのように使えばいいのですか」と。どうかそれを、神との対話の中で心静かに聴いてください。それこそが、祈りです。神様は、あなたがそれを真摯に尋ねる時、必ず耳を傾けて聴いてくださり、そしてあなたに応えられるでしょう。神が直接、そのみ声でもってお応えになることもあるかも知れませんが、様々な人との出会い、言葉との出会い、出来事との出会い、それらの出会いを通して、神はあなたに語りかけられます。神は、あなたのために特別に用意されている時をお選びになり、その時でしか成し得ない出会いを与えてくださいます。どうぞ、その「時」に敏感に、そして与えられた「出会い」を神からのギフトとして豊かに受け止め、あなたの糧とし、成長を続けてください。

2年前の3月、日本中を、大きな哀しみと苦しみと、そしてそれを乗り越える強さへと導いた、東日本大震災。その時以来、人々は本当の対話の大切さに気づき始めたと言われています。そして本音で語り合うようになった。表面的、上面だけの会話や、その場限りのやりとりだけでやり過ごすには、人生はあまりにも不確実で、不確定である。また会える、また話せると思っていても、もう二度と会えないかも知れない。ありがとうと言いたい、ゆるしてほしいと語りかけたい、そう願っても、もう二度とそのチャンスは与えられないかも知れない。やりたいこと、やるべきこと、言いたいこと、言うべきことを先延ばしにして時間をやり過ごすには、それぞれに与えられた持ち時間はあまりにも短く、この世は不確実です。でも、人間の心と心のつながりは、そのような不確実な時間と空間の中で、愛に満ちた絆を探し求める存在なのだと、あの日以来、私たちは知り始めています。今、与えられているこの時に、本音で語り合い、心から対話し共感し合うこと、行うべきことを躊躇せず行うことが、どれだけ大切でかけがえのないことであるか、そのことをようやく、理解し始めた。これは、私たちに与えられた新たなる知恵であり、苦しみを越えて到達した真理でもありました。

今日で、ノートルダム女学院中学校での三年間を終え、新たなステージにさしかかろうとする皆さん、皆さんのこれからの青春の時間は、煌めく宝石のような時間です。それは意外に短く、でも想像しているよりははるかに、堅固な土台となって、今後の皆さんの人生を支えるものです。どうか、今のこのかけがえのない十代の青春の時間を、心を尽くして魂をつくして、神と他者と自己に誠をもって生き抜いてください。心から対話し、心から共感し、つながり合って共に生きる。すべてが失われても、最後に残るものは、そうやって培った心と心のつながりであり、神が最もお望みのことであるということを胸に刻んで、次の扉を開けてください。

神の祝福が皆様の上に豊かにありますように、お祈りいたしております。




2013年3月1日金曜日

2月28日、第58回卒業式を挙行いたしました。


創立60周年を機に、2012年度より、本校のルーツである米国の姉妹校に合わせて、キャップ&ガウンを身にまとって、139名の生徒たちは、それぞれの夢を胸に、この学び舎を巣立っていきました。
当日の学校長式辞を、以下に掲載いたします。





皆さん、ご卒業おめでとうございます。今日の皆さんは、マリアン・ブルーのガウンに身を包み、眩しく輝いて見えます。保護者の皆様、高いところからではありますが、お嬢様のご卒業、誠におめでとうございます。本日のお喜びの日を、ここでこのように共にできることを、心より幸せに思っております。パウロ大塚司教様、シスターモーリン和田理事長様を始めとするご来賓の皆様、本日をこのように共にしていただくことは、私たちの大きな喜びでございます。誠にありがとうございます。

卒業生の皆さん、このように私がこの壇上から皆さんに向かってお話しすることも、もう、これが最後になります。ノートルダム女学院での大切な時間は、この139名の方々に同じように与えられ、それは同じように過ぎ去っていくように見えますが、実はその中身は、一人一人に特別に用意され、時機を得て計らわれ、与えられたものです。すなわち、この時間のすべては、神様からのあなた方一人ひとりへのかけがえのないギフトでした。まわりの人々や出来事、事物に、尊敬をもって対話的に関わり、その関わりの中で培われた共感力と行動力をもって、あなた方はまもなく、それぞれに用意された次の扉を開き、次のステップへ進んでいかれます。そこには未知の世界が広がっており、皆さんは、それぞれの人生を、より独自に、創造的に生きることに招かれています。その扉のノブに、今手をかけようとするあなた方お一人おひとりの背中に向かって、私はその後ろに立ち、大切なことを最後に知らせます。それは、あなた方が卒業しようとしているノートルダム女学院が全身全霊であなた方に知らせたかったことです。

ノートルダム女学院は、あなたに、この世界であなたは決して孤独ではない、ということを、あらゆる機会を通して知らせてきました。あなたをこよなく愛し、喜びとご苦労の中で大切にお育てになったご両親の心、何気ない日常の中で、楽しかったことや辛かったことを共にしたかけがえのない友人たちの心、そして、どんな時もあなたを励まし勇気づけることを忘れなかった教職員の方々の心、あなたは、これらの沢山の心にふれあい、一番大切なことに気づいたはずです。それは、ここノートルダムであなたは、すべてを包み、そしてすべてを超える神の愛の中におられたということです。そして、それを知ったあなたは、これからも、神の守りがあなたを離れないことをも知っているはずです。あなたが神の愛の中で生まれ、あなたの青春の日々が神の愛の中にあったように、これからも、あなたは、愛されて生きる人としてどうか、あなたが出会うすべての人々にとって、光であり、希望であってください。この世界には、孤独な人、苦しんでいる人、弱い立場に押しやられて泣いている人々がたくさんいます。あなたのすぐ近くにも、そして遠く海の向こうにも。まなざしをしっかり神に向けて進む時、神はそれらの人々の存在をあなたに知らせてくださることでしょう。どうか、それらの人々の隣人となり、彼らを愛し抜き、彼らにとって光となり、希望となってください。ノートルダムで教育を受けたあなたには、それがおできになると私は信頼を持っています。

ノートルダムで学び始めたばかりのあなたは、まだ幼く、自分にいったい何ができるのかを知りませんでした。でも、在学中に、沢山の課題に向き合い、それを解決しようと悩み、考え、困難に打ち勝ってこられました。それらをくぐり抜けられたあなたは、今、一人ひとり、美しく輝く18歳の姿を、私たちに見せてくださっています。自信をもって、扉を開けてください。扉の向こうの世界で、あなたはノートルダムで開花し始めた可能性をもって、神に派遣された場所で、ついに一輪の美しい花になります。その花は、一輪一輪、神から与えられた使命を持っています。どこでどのように咲くか、それは神のみがご存知でしょう。一人ひとりに与えられた使命はその人固有のもの。その使命を果たすために、大いに愛し、愛し抜き、時には戦い、時には休らい、それらの日々に神は常に絶えず、あなたと共にいてくださる、そのことを信じ、全力であなたの生命を燃やしてください。それが、私の、あなたがたお一人おひとりへの、切なる願いです。

昨年10月びわこホールにおいて、皆で盛大にお祝いしたノートルダム女学院の新しい門出は、ちょうど60年前、日本の地に勇敢に降り立った、ミッションへの最初の熱意がなければ叶わないことでした。私は、あの日、ノートルダムの初代校長シスターメリーユージニアレイカーに、私の祈りの取り次ぎを願いました。戦争に負け、物資貧しい日本、京都の東の山すその、何もない鹿ヶ谷、そこで一からすべてを始められたシスターユージニア校長は、何を思い、何を祈り、何も夢見て、この学校を建てられたのか、そのことに思いを馳せました。60年が経ち、1万人以上の卒業生を輩出するカトリック女子校に成長したその先端において、今と未来の責任を担う今日のノートルダム女学院は、もはや、過去の経験や知識に頼るだけでは生きてゆけない新しい時代に存在しています。願うことは、めまぐるしく移り変わる社会の只中で、時代を読み取るしなやかなヴィジョン、グローバル化が加速度を増す中、そのひずみに目を向け行動するための感性、しかしながら、私にとって最も大切な願いは、女学院に学ぶ一人の人格が、いつの時代においても、神の愛を信じ、その愛で自己と他者を、誠をもって大切にできる女性になることであり、ノートルダムがその学び舎であり続けることです。

今日、私はこの学年の卒業生に特別なプレゼントをさせて頂こうと思います。それはあなた方が、記念すべき、創立60年目、ダイヤモンド・ジュビリーの年に、この学び舎を巣立つ生徒たちだからです。1952年4月15日、本校最初の入学式での学校長シスターユージニア・レイカーの英語の式辞の一部です。敗戦後3年しか経たない占領下の日本で学校の設立を着手され、3年後の1952年に開学。それはポツダム宣言を受諾した日本が、自らの国家を取り戻そうとしている時と重なっています。初代校長は、米国人として、戦争でズタズタに傷ついた日本人に対して、和解と友愛の心情で対話され、誇りをもって生きるように呼びかけられました。あなた方に今日、この入学式でのスピーチをプレゼントします。

True education does not consist merely in acquiring knowledge. Fundamentally considered, education consists in the formation of character, in the development of all that is good and noble in the human being, to the end that he or she may attain her own happiness as well as the happiness of her fellow-beings.  Hence the school’s motto is VIRTUS ET SCIENTIA.  We hope you will always be true to this motto combining with knowledge a virtuous character that will make you an honor to God, to your parents, to your school, and to your country.

(和訳)
真の教育は単に、知識の獲得のみにあるのではありません。教育はその人のうちにある善なるもの尊いものを成長させながら、その人格を磨いていくことに他なりません。そしてついには、自己のみならず、他者を幸福にすることができる人間になることです。
故に、VIRTUS ET SCIENTIA 「徳と知」は、この学校のモットーなのであります。あなた方は常に、このモットーに忠実に、知識に加えて徳の高い人格をめざし、神が、そしてあなた方のご両親が、この学校が、そしてあなた方のこの国が、誇りとする人になってください。


きっとシスターユージニアも、神の国から今日、ここにいる私たちに祝福を送って下さっていることでしょう。

私が大学生の時、私に個人的に聖書を一緒に読んで下さっていたシスターユージニアは、ある時、私に、ご自身が純白の毛糸で編まれたマフラーをくださいました。私はもったいなくて、なかなか使うことができなかったことを憶えています。でも、校長になった最初の冬、今年、大切にとっておいたそれを、私の肩にかけてみました。30年以上経っても、シスターのマフラーは、眩しく白く温かく、私を包んでくれました。身にまとうものには意味があります。あなた方がマリアン・ブルーを今、身にまとっていることにも意味があります。あなた方がノートルダムで得たすべての愛に満ちたものを、このマリアの色であるガウンに託し、それを身にまとって卒業してください。振り返らずに、前に進み、恐れることなく今、未知の扉を開けてください。

神の祝福が皆さんの上にいつも豊かにありますように、お祈りいたします。

2013年2月6日水曜日

ミッションスクールって何でしょう?


今日は、風邪やインフルの予防のために、通常の講堂や聖堂で行っている集会型の朝礼に代わって、全校放送朝礼を行うことにしました。原稿を用意したのですが、朝礼が終わって読み返してみると、これこそ、読者の皆様に知って頂きたい内容だったと改めて思ったのです。

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皆さんおはようございます。本日は、インフルエンザや風邪を予防するために、大勢の人々が一堂に会することを避けようと、放送で、私の話を聞いて頂くことになりました。

私が折にふれてこれまでに話してきたことの中で、このような機会、すなわち、全校の人々が、生徒の皆さん、教職員の方々がおられる時に、話しておきたいことがあります。何度も、何度も、これまでに話してきたことかもしれない。でも、この学校にとって、存在の根幹に関わることを、今日、私は皆さんにもう一度触れてもらいたいと思うのです。今、中1から高2まで、この話をHRで聞いてくださっているので、私はこの話を、ちょうど真ん中に位置している中3の方々の理解に合わせて話そうと思います。だから、中1の皆さんにとっては、ちょっと難しく思うかもしれませんが、がんばって、理解してみようという気持ちで聞いてください。

この学校は、カトリックのミッションスクールであるということは、すでに知っていますね。で、皆さんのお友達やおばさんやおじさんに、あなたが通っているノートルダムは、ミッションスクールってきいたけれど、一体、それって、何ですか?と尋ねられたら、あなたはどう答えますか?「さあ、しらない」ではあまりにも恥ずかしい。ご自分が、大事な青春時代の日々を、この学校で送ることを選んだのです。単に、ホームルームが楽しければいい、友達がいっぱいできればいい、先生がよい先生であればいい、それだけでは、本当のノートルダムのコアな価値に触れているとは言えません。今日は、この放送の後、あなたが通っているノートルダムは、こういう学校なのだとご自身で納得していただきたい、そして、あなたの周りの人々にも、わかりやすく説明できるようにしてもらいたい。それが今日の放送の狙いです。

この学校が、アメリカ人の4人のシスターによって、60年まえに設立されたということをすでに私が創立記念日を始めとして、様々な場面でお話をしてきました。そしてこれも、もう、幾度となく話していますが、私も、ノートルダム女学院の生徒でした。皆さんと同じ茶色の制服を着て、この鹿ケ谷の坂道を毎日登り登校してきました。
私が女学院に通っていたころは、まだベールをかぶったシスター方がたくさんおられて、英語や国語や社会や理科や家庭科や宗教など、シスターたちからたくさん学びました。でも、実際には、私にとってシスターから勉強を学んだということよりは、はるかに、シスターという人がこの世の中に存在していることのほうが興味深く感じました。そして、なぜ、この人たちはお隣の修道院、今はユージニアハウスと呼んでいるこの不思議な場所に、たくさん集まって生活しておられるんだろう。何が楽しくて毎日ニコニコして生きておられるんだろう、好きな人はいないんだろうか?恋愛してもいいんだろうか?とかいろいろ素朴に思ったものでした。そして、しばらく時が経って、はっきりとわかったことがありました。どんなシスターも、優しいシスターも怖いシスターも、大好きなシスターも、私自身ちょっと苦手なシスターも、みんな共通な一つのことがあるとわかったのです。それは、イエス・キリストという人に惚れ込んで、ここまで来られたのだということでした。イエス・キリストって、相当にすごい人のはずだ。だって、こんなにたくさんの人が、実際に信じているだけでなく、自分の一生を賭けて、キリストに倣って生きたいと望んで、共同生活を実際にしてしまうなんて、それって、結構凄いことじゃないかな、と思ったわけです。週に一度教会に行くっていうだけでなく、一生涯を、イエスのために生きよう、イエスのように生きよう、イエスを伝えるために生きよう、と決意することができる、そんなイエスってどんな人だったのだろう。神様だって言っているけど本当かなあと、生徒だった私は、本当にイエス・キリストのことが知りたくて知りたくてたまらなくなったのでした。そしてこんなことがわかったのです。

イエス・キリストという、もう2000年も前に生きていた人がいた。ユダヤ人、男性。マリアという女性から生まれた人。お腹が空いている人たちにパンと魚をたくさん増やして祝福の内に与えた人、だれにも相手にされなかった人の家に行って一緒に食事をした人、たくさんの病人を癒した人、死人を生き返らせた人。盲目の人の目を開けた人、敵を愛しなさいと教えた人。出かけていって困っている人、虐げられている人、弱っている人、傷ついている人の隣人になりなさいと教えた人、友のために命を捨てることよりも大きな愛はないのだと教えた人。たくさんのたとえ話をもって、私たちに神様の大きな大きな愛について教えた人。嵐を鎮めた人。幼子を抱き寄せて祝福した人。神殿の前の商売人を追い出し、出店をひっくり返して教えた人。祈りを知らない人々に誰に向かって何をどう祈るのかを教えた人。私は道であり、命であるといった人。99匹の羊を山に残して、迷った一頭の羊を探しに行くと言った人。多くの人に本当の喜びと魂の生き返りを体験させた人。命の言葉を話した人。救いの言葉を話した人。最後の晩餐で、どれほど弟子たちを愛しているのかと説いた人。そして本当に弟子たちを、周りの人々を心底から愛した人。その弟子たちに裏切られても尚許した方。そしてだれにも理解されずに、33歳でこの世を去った方。そして、死んで3日目の朝、復活された方。そして復活後、弟子たちに現れ、3度裏切った弟子のペテロに「私を愛しているか」と3度尋ねた方。そして臆病だった11人の弟子たちを、180度変えてしまった方。それ以降、弟子たちは、何も恐れず、力強くキリストを宣べ伝え、そして、その弟子たちの弟子たち、そのまた弟子たちが、今日まで、ひと時も絶やさずにイエス・キリストの教えを広め、シスターたちから私が、その教えを学びました。2000年の時が、こうしてつながっているわけです。今、私はあなた方に、この方の話をこうして伝えています。私だけではなく、この学校のいろいろな場面で、あなた方はイエス様の言葉を得て、その教えを心に留める機会をどうか大切にしてください。 イエスの最も大切な教えは、「愛しなさい、そうすれば生きる」ということです。「生きる」とは単に食べ物を取り入れて生物的に生きるという意味を超えて、与えられた「命」を全うする、本当に「生きる」ということです。イエスは「生きる」ことは「愛すること」であるとはっきりとおっしゃっています。そのことの意味を、このノートルダムでつかんでほしいと思います。そのために、あなた方がその意味をつかむために、この学校は存在しています。そのためだけに存在 しているといっても本当は過言ではないのです。

ところで、冒頭私はミッションスクールとは何ですか?と質問しました。
ノートルダムは、皆さんにとっての中高時代という時間を育む場所であります。そして、その場所は、単にいつのまにかあったのではなく、今話したような生き方をされたイエス・キリストという存在の生きざまに最大の価値をおいて、これが、私たちのめざすべき学校のハートである、と世の中に宣言している学校のことなのです。時代が変わり、そこに生きる人々の顔ぶれが変わっても、尚変わらないものを知っていて、それを受け、そしてまた渡し、大切に伝えながら、その時代時代を生きていく学校。それがミッションスクールです。皆さんは多くの人々の愛情によって大切にされてきた学校に暮らしているのだということを覚えておいてください。そして、最も大切なことは、皆さんが一番新しい時代の先端に、こよなく愛されて生きる生徒である、ということです。今日、私が伝えたいことはそのことです。

今日も恵みに満ちた一日でありますように。

2013年1月21日月曜日

神は私たちと共におられる


美しい書を頂きました。校長室に入ったところに掲げました。2013年の幕開けに、部屋が凛とひきしまりました。

この言葉は、マタイによる福音書のはじめの部分に出てきます。イエスのご誕生に際して、主の天使がマリアの夫ヨセフに告げられる場面に登場します(マタイ1章23節)。「インマヌエル(神がともにおられる)」と呼ばれる子ども、それがイエスご自身。イエスがこの世界の一角であるベツレヘムに生まれ、ナザレにおいて幼少期から少年期を経て成人され、人々に教えを説いて十字架の死を経て復活される、このすべての出来事をとおして、神ご自身が私たちに示されたメッセージは、「神は私たちと共におられる」ことでした。

イエスの死と復活から2000年以上経った今を生きる私たちに、このメッセージはどのように語りかけるでしょうか。何があっても、どんなことが起ころうとも、「神が共におられる」ことを信じる―これこそは、私たち一人ひとりに、イエスの誕生と共にプレゼントされた神様からの「招き」であると私は思っています。

以前、私の友人が重い病気にかかりました。二人の幼い子どもたちを残して、もう助からないことが分かっていました。彼女に、そして彼女の家族に襲いかかる大きな哀しみを前に、私は初めて、神様は理不尽だと怒りの気持ちを憶えました。そして、私の尊敬する神父様に、私の気持ちをぶつけたことがありました。「なぜ、神様はこれを許されるのか、なぜこんなことが現実に起こることを放っておかれるのか、私には到底、理解できません!」と泣きながら訴えました。彼は、死にゆく私の友人からも、とても慕われていました。彼は私をじっと見て、「神は、ご自身が愛してやまない我々人間に、自由意志と知恵を与えられた。病気も、事故も、戦争も、人間の営みに無関係なものは何もなく、現実に否応なく起こってしまう。様々なことで引き起こされる人間の深い哀しみについて、それをじっと見守られるのが神だ。決して見捨てないのが神だ。そして哀しむ私たちの傍らに留まり、一緒に泣かれるのが神だ。あなたは、その神を信じていますか。」と、神父様は逆に私に問われました。私は黙って泣いていました。でも「共におられる神」について、彼が私に問いかけた貴重な時でした。その友人は、それからしばらくして、神のもとへ召され、今はその神父様も、天において永遠に神と共におられます。三人のうち、私一人が今なお、この世の命を生きている ― 生きることと死ぬことは、私にとって永遠の神秘です。この世で生きる時間、どんな時にも、神が私と共におられること、そのことを私が心から信じて毎日を生きる決意があるか、彼が私に問いかけたその問いを、この書は思い出させてくれます。

一月,二月は入試のシーズン。ここノートルダム女学院から志望大学へ果敢に受験していく皆さんと、この女学院へ緊張した面持ちで受験に来て下さる小中学生の皆さんに対して、私は同じ気持ちです。一人ひとりに、神が共にいてくださいます。安心してご自身を委ねてください。そして知ってください。必ず、あなたにとって最善を取り計らってくださる神様が、いつもあなたと共におられるということを。


2012年12月18日火曜日

クリスマス − 最も小さな人々に告げ知らされた出来事





クリスマスが近づいています。現在、学校の正面玄関には、小さなクリブセット(馬小屋の模型)と、クリスマス・ツリーが置かれています。そう言えば、私が子どものころ、家の近くの教会では、本物に近いような馬小屋が設けられ、人の実寸のマリア様やヨセフ様、そして羊飼いたちが飼い葉桶を囲むように佇んでおられて、そばを通るたびに胸がときめいたものでした。そして飼い葉桶の赤ちゃんは、24日クリスマス・イヴの深夜にお生まれになるので、その時まで飼い葉桶は空っぽのままだったのです。

そんな昔の思い出があるなか、本校のこのクリブセットの小さな赤ちゃんは、あまりにもかわいく、生徒たちに早く見てもらいたくて、24日を待たずして小さな飼い葉桶の中に大切に置くことにしました。はやばや、クリスマスの到来です。
飼い葉桶の赤ちゃんは、まぎれもなく「私たちの救い主」であるイエス様です。もう月が満ちるというのに、泊まるところもないマリアの初産、その出来事を最初に知ったのは、極貧の中、寒さで震えながら夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちでした。

クリスマスの意味を考える時、「赤ちゃん」という存在でこの世界に来られたイエスと、その知らせを最初に聴いた羊飼いという存在、この二つは大切なポイントです。

まず、救い主のこの世界での登場の方法です。彼は、流星と共に現れたカッコいいスーパースターではなく、だれかのケアを絶え間なく必要とする「赤ちゃん」という姿でこの世に来られたのです。助けを必要とする弱い存在として、愛情と信頼を、その存在そのもので誘い(いざない)ます。赤ちゃんを囲む人々は自ずと優しく、心ほどかれていく―人々からそのような力を引き出す存在である救い主なのです。

次に、「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった!(ルカによる福音書2章11節)」と、主のみ使いに宣言された「あなたがた」は、極寒の荒野で、だれにも相手にされず、羊の群れの中に紛れていたような無名の人々でした。その彼らにとって、本日お生まれになった救い主は、「自分たちの」ために来られたと知るのです。「さあ、ベツレヘムへ言って、主が知らせてくださったその出来事を見て来よう(ルカ2:15)」と、羊の群れをその場に置いて、彼らをベツレヘムへと急がせたその緊急性は、主の使いがかれらの「そばに立ち」「主の栄光が彼らを覆い照らした(ルカ:2:9)」、つまり、初めて自分たちの存在に、光が照らされたという彼らの感動が伝わってきます。この世を動かしているように見える権力、経済力、名声とは全く無縁の場所-馬小屋、飼い葉桶、荒野、それらの場所で、2000年前、キリスト・イエスによる救いは始まったのです。

イエスご自身が、助けを必要とする存在としてこの世に来られ、まず最初に連帯した人々は、このような存在、すなわち、助けを必要としている最も小さく弱い人々であったということ、このことをクリスマス前の待降節に思い巡らしています。

2012年10月16日火曜日

本校創立60周年記念式典が開催されました




先日10月12日には、本校創立60周年記念式典がびわ湖ホールで開催されました。式典と音楽の集いの2部構成でしたが、本校高校1,2年全員と卒業生たち300人近くの人々によって歌い上げられた「マニフィカト」大合唱と、オーケストラクラブによる「大学祝典序曲」は60年の創立記念行事に相応しい格調高いものであったと誇りに思っています。

その時の様子を写真や動画で皆様にできるだけ早くお見せしたいと思います。今回、こちらでは、第一部の式典の方で私が話した式辞の原稿の全文を上げてほしいという要望にお応えすることにします。当日はほぼこれに従って話しました。女学院のこれまでの60年間が、変わらずに大切にしてきた本校の価値観と行動指針を三つ、挙げてお話させていただきました。そして、これからの新たな第一歩を歩み出す私たちが、どこを目指してどのように生きていくことが神様に望まれているのかということをご一緒に考えるよい機会になったと思っています。





創立60周年記念式典 式辞

 本日、私たちは、ノートルダム女学院中学校高等学校の創立60周年をお祝いするために、このびわ湖ホールに集っています。なんという特別で、素晴らしい時なのでしょう。神様のご意志で建てられ、そして成長したこの学校の60年間に思いを馳せ、そして今日からの新たな第一歩を踏み出すための決意を、神様のみ前にお捧げする、特別なこの時間を、今ここに集う皆様方と共にすることができることを、私はこの上ない喜びと感じています。

 ここにいる生徒の皆さんは、ご自身が60年の本校の歴史の最先端を生きる大切な人たちであると知って下さい。

そして、保護者の皆様、本日はご参加くださり誠にありがとうございます。この記念すべき時に、皆様の大切なお嬢様の教育をお委ね頂いたこの学校が、どのような心で生き、何をめざす学校なのかということを、本日のひとときを通して、是非感じ知って頂きたく思っております。

いつも女学院を様々な方面から支えて下さっているご来賓の皆様、本日は、ご多用のところ、女学院の特別な日のために、このように駆けつけていただきましたことを、心より感謝申し上げます。ありがとうございます。

 ノートルダム女学院中学高等学校は、ドイツにおいて、マザーテレジアゲルハルディンガーが創設されたノートルダム教育修道女会によって、1952年、京都の鹿ヶ谷の地に開学いたしました。

ノートルダム教育は、世界のどこにあっても、女性が、神の愛のうちに、他者と自己に誠をもって生きる生き方を学ぶ学校、質の高い教育を通して、また本物に触れる感動を通して、その可能性を無限に開花させようと励みます。

日本のノートルダム教育は、ドイツから広がり、アメリカ合衆国ミズリー州セントルイスのシスター方によって始まりました。鹿ヶ谷の土地に直接種が蒔かれたのです。その種は、60年の歳月を経てここまで成長して参りました。今日、1万人以上の卒業生が生まれるカトリックミッションスクールとして、その根を張り続けています。
 言葉という手段では到底表現できない60年という歳月に、私たちが受け取ったもの、そして未来へと引き継ぐべきものはあまりにも多いですが、でも、それをあえて、三つの項目で表してみることを試みたのが、この4月、私が学校長に就任した最初の入学式においてでした。

就任するに際して、私は改めて、この激動の時代、女子カトリック・ミッション校にとって決して順風ではない時にあって、ノートルダム女学院の存在の理由とその証しについて祈り、黙想しました。私が生徒として、ノートルダムで学んだものは何だったのか。マザーの娘であるアメリカ人、日本人のシスター方が命をかけて、私たち生徒に知らせたかったものは何だったのか。創立者マザーが、最も大切だと思っておられるものは何なのか。そして徐々に、私の心の内側ではっきりしてきたことが、次の3つのことがらだったのです。

女性の12歳から18歳までというかけがえのない大切な思春期に、ここで学ぶ生徒の皆さんが在学中に体得してほしいこと、その一つめは、生徒の皆さん一人ひとりは、神様に既に愛されて存在しているかけがえのない大切な人々である、ということです。この学校の様々な場面で、そのことに気づいてほしい。神様はあなた方一人一人を無限に愛されていることを。神はあなた方を愛さずにはおれない。神が愛そのものだからです。それを知ることは、皆さんお一人お一人の人生の旅路の究極の目的といっても過言ではありません。その旅路に出ることを、この学校での学びから始めてほしいと願っています。

二つめは、あなた方は一人ひとり、神様から、無限のすばらしさと可能性を与えられているということです。そして、その可能性は、他者のために開かれたものであり、だれかの幸せのために、自分の使命を生きる時、自分の存在を懸けた時、あなたの人生の完全開花が成し遂げられると知ってください。あなた自身の素晴らしさは何か、そしてどのような可能性を秘めているのか、そのことを、この女学院において、あなたご自身が見つけて下さい。そして、神様はあなたがそれを見つけ、その可能性に向かって努力を続けるその時に、優しく寄り添って必ず助けてくださいます。そのことを知ってほしいのです。

三つめは、あなたは、この世界の、あるいは宇宙の構成員であるという気づきです。神がお造りになったこの宇宙で、皆さん一人一人は、あらゆるものとつながり合って生きています。全世界の多様な人々とつながり合っていることはいうまでもなく、動植物、自然、この宇宙のあらゆる被造物、つまり神がお造りになったものと密接につながり合い、お互いに生かし合って生きています。そのことを知ってください。そして多様に存在するこれらの違いを知り、受け入れ、そして、やがては世界中のすべての被造物が共に豊かに生きていくために、努力して行動できる人に成長して頂きたいのです。

以上これらの三つのことがらは、これまでにノートルダム教育があらゆる場面で真摯に行ってきたことがらであり、そして次の時代に私たちが責任をもって受け継いでいかねばならない大切な価値観と行動指針です。これらを実際に生きることが、神様と共に責任をもって未来をつくることにつながります。

特に今現在、地球はあらゆる側面で傷つき、うめいています。自然界のあらゆる場所で、その環境にひずみが起き破壊が進んでいます。また、世界の国々が急速につながり合うように見える一方で、そのために地球社会では経済的な格差が生まれ、深刻な貧困が進み、すみに押しやられて泣きながら生きている人々が急増しています。私たちができることは何か、学ぶことは何か、変えていけることは何か、それを問い続けましょう。そして行動に移しましょう。

生徒の皆さん、神様は心から皆さんのことを愛されています。そして望んでおられます。ノートルダムで過ごす皆さんが、誠実で優しい人に育つように。そして困っている人、助けが必要な人のことを思いやれる人になれるように。人だけでなく、自然に対しても、世界の様々な不正義や、そこから生まれる必要性に対しても、敏感になれるように。そしてニーズに対して行動できる人になれるように。神様は、のぞんでおられます。だからもっと様々なことを勉強し、自分の糧にしてください。視野を拡げ、愛深く生きてください。それが神様の、そして学校長としての私の願いです。

保護者の皆様、ノートルダム女学院で、このようなご縁を頂き、そしてお出会いできたことを神様に深く感謝しています。私たちのノートルダム教育に信頼をお寄せくださっていることにも深く感謝しています。どうか、女学院を、そしてお嬢様を共に育むパートナーとして、これからもよろしくお願いいたします。

ご来賓の皆様、本日よりまた新たにノートルダム教育の実現に私たちは全力を投じます。変えてはならないものを守り、変えていくべきことについてはしなやかに、その識別の眼力を磨きながら、前に前にと進んで参ります。温かいご支援を頂ければこれ以上の喜びはありません。

特にシスター方、高いところからではありますが、いつもいつも、私たちのために温かくサポートくださり、また日々祈っていてくださり、本当にありがとうございます。これまで命を投じて行われてきたノートルダム教育を、次世代の私たちにお任せになるにあたって、お心を砕いて下さっている日々、感謝しております。信頼して、見守って下さる温かい眼差しを感じて、私は日々励まされています。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

これをもちまして、私の式辞とさせて頂きます。

2012年9月18日火曜日

平和ミュージアム「火の鳥」レリーフ


 皆さんは、京都の衣笠にある国際平和ミュージアムを訪れたことがおありでしょうか?立命館大学が「平和創造の主体者をはぐくむ」という素晴らしい理念のもとに開設された平和博物館。私たち女学院には「平和を考える日」が設けられていて、中学校在学中に必ずその博物館に一度は訪れることになっています。今日は、この博物館のロビーラウンジの話をしたいと思います。私も、中学生と共に何度となくこの博物館には足を運んでいますが、たいてい展示室の方でかなりの時間をかけるので、ラウンジに座る時間があまりとれませんでした。が、今年は、そこに、先生方と共に少し座る時間がありました。

ゆったりとした天井の広い空間の、東と西の広い壁のそれぞれに、大きなレリーフが掲げられています。それが手塚治虫さんの「火の鳥」であることは、その特徴からすぐにわかりました。よく見ると、東と西の二体の「火の鳥」は、それぞれ様子が少し異なっています。

東壁面の「火の鳥」は、首から羽のあたりに暗い色彩が施されており、頭も少し下がっていて、どことなく悲しげです。











一方、西側の「火の鳥」は、明るい金色で全体が輝いていて、首を高らかに上げて翼を大きく広げています。これはどういう意味があるのだろうと知りたくなって、入口近くにある説明文を見つけたのでした。









東の鳥は戦禍による人類の未曾有の苦しみと悲しみの「過去」を語り、西の鳥は平和への希求と実現を呼びかけている「未来」である、と。手塚氏の「火の鳥」は、随分前に映画で観た記憶があります。様々な生き物たちが大自然の摂理の中で懸命に生き、その命を謳歌するストーリー、命の尊さを宇宙規模で捉えたその作品は、なるほど、この博物館の理念に叶うものであると思いました。そして、このラウンジに名前がついていて、「火の鳥:過去、現在、未来」―ああ、そうか、私たちが今いるこの空間は、「現在」なのだ。平和創造の主体者たる私たちが、過去を振り返り、未来に向かって生きようとする「今」「ここ」で、何を選択し、どう決意し、どこに向かって生きていくのか―私が現在を生きることに深い意味を与えてくれる、すばらしい空間づくりであると感動しました。

私たちは、それぞれ一人ひとりが平和を創りだすように招かれている、その当事者なのですね。「平和を創りだす」など、あまりにも壮大で、自分には関係がないと思わないでください。目の前の困っているだれかに手を差し伸べること、悲しむ人の傍らに共にいること、それこそが、あなたによって創りだされる「平和」です。ノートルダム女学院では、毎日の帰りのホームルームで中一から高三まで、あることを創立当初から行っています。それはこの火の鳥のレリーフに深く関係があるなあと思いました。「平和を求める祈り」―それは、「私を平和の道具としてお使いください」という美しくみごとな一文から始まる祈りです。「火の鳥」に触発されて、次回はこの「平和の祈り」について、分かち合いたいと思います。

神様の平和が皆様と共にあるように、今日も祈っています。


2012年9月13日木曜日

ノートルダムの香り漂う2学期へ


長らくご無沙汰いたしました。皆様お元気でこの夏をお過ごしでしたか。私もお陰様で多忙の中にも神の恵みを感じる日々でもありました。第2学期も無事に始まり、瞬く間に2週間が過ぎ去ろうとしています。
 2学期は、ノートルダムのノートルダムらしさが、さらに醸し出される学期。私たち自身を育ててくれる、そして、それを私たちが誇りとしている様々な活動がキャンパス一杯に広がる輝かしい時です。一つひとつ、できる限りご案内して参りたいと思っております。ご期待ください。
 今回はその予告編にしたいと思っています。
まずは何と言っても9月22日から24日に繰り広げられる「文化祭」。今年のテーマは「信頼~Trust」です。信頼と聞けば、私がまず思い起こすことばは「つながり」です。ですから、文化祭のパンフレットに挨拶を書いてくださいと言われた時、私はサブタイトルに「『私』と『あなた』のつながりから生まれるもの」という表現を選びました。つながりから生まれるものは無限の広がりです。どんな広がりを見せてくれる文化祭になるのでしょう。今から楽しみです。
 その後に来るのが10月6日の体育祭。思いっきり頑張ってくれることでしょう。応援席から皆さんの勇姿を見せて頂くことを今から楽しみにしています。頑張れ!
 さて、いよいよ、10月12日、本校創立記念日の到来です。今年の創立記念日は少し特別です。1952年に鹿ケ谷にこの学校が創設されて、今年でちょうど60年を迎えるからです。そうです。ダイアモンド・ジュビリー(Diamond Jubilee)と呼ぶ記念すべき年になります。びわ湖ホールで特別なお祝いをして、お客様もたくさんお招きして全校あげてこの60年の歩みに想いを馳せて、神様に感謝を捧げる一日としましょう。
 11月3日は、恒例の英語コンテスト・暗唱大会の主催校として、近畿地区の小中学生たちをお招きします。本校の講堂が、様々な制服を着た他校の生徒で一杯になり、緊張感漂う特別な空間になる日。ドキドキします。
 校庭の紅葉が色づく前に、今学期の誕生日ミサがあり、高校3年生の指輪贈呈式、そして11月の追悼祈りの会の頃には、彩り鮮やかな紅葉が私たちの目を楽しませてくれるでしょう。そして、いよいよ待降節を迎え、クリスマスです。ボランティアスクールについては是非ご紹介したいです。まだまだ、ここに書ききれない活動が目白押しですが、どれ一つをとっても、ノートルダム教育の香りが漂うものばかりなのです。
 予告編と言いながら、やはり長くなってしまいました。また今学期もこのブログ上で、どうぞよろしくおつき合いください。
 

2012年7月14日土曜日

世界のノートルダム・スピリット

昨日は、ノートルダム教育修道女会(School Sisters of Notre Dame  以下SSND)のサマープログラムの一環として、海外からのシスター方が5名、本校をご訪問され、先生方や生徒たちと交流されました。4名は米国各地から、1名はアフリカはナイジェリアからお越しになりました。5名のシスター方は、どこに生きていても、ノートルダムがキリスト・イエスの教えた生き方を貫く共同体であることを、私たちに伝えてくださっている、私はそのように感じます。

シスターポーリッサはマンケートで識字教育に携わっておられますし、シスターシンディーは現在ミルウォーキーで高齢者に関わるお仕事に、シスターテレサはメリーランドの本校の姉妹大学であるノートルダム大学でフランス語をご担当、シスタージョンはミルウォーキーの、同じく本校の姉妹大学であるマウントメリー大学の副学長です。そして、アフリカはナイジェリアからのシスターメイベルは、あちらのノートルダム女学院高校の校長先生でいらっしゃいます。ノートルダムの豊かな広がりを感じます。

朝8時15分の本校の職員朝礼でご挨拶を頂いた後、午前中本校生徒が期末考査最終日でテストに取り組む間、本校の敷地内にあるお茶室で裏千家茶道を楽しまれ、その後、修道院として6年前までシスター方の居住されていた歴史的建造物である「和中庵」をご見学。皆さん既に非常によく事前学習されていて、この建物が大正末期、1926年に建立されていることも、その中のお一人はご存じなのには驚きました。シスター方は、日本の伝統的な建造物の黒光りする廊下を静かに歩きながら、同じスピリットで生きた日本の姉妹会員たちへの、往時の暮らしに想いを馳せておられるご様子でした。ランチまでに少々時間があるので、徒歩10分のところにある法然院にお連れしました。本堂近くの方丈では、たまたま珍しく現代美術の展覧会が開催されており、この機会に私自身も普段は機会がなかった空間に入らせて頂くことができ、あの空間が放つ凛とした静寂さにシスター方と共に「京都」を感じ、感動しました。

午後は生徒たちによる交流の集い。風呂敷の使い方のプレゼンテーション、また、この春に東北にボランティアに行った3人の生徒たちによるレポート等、力作続きの歓迎で、シスターたちからお褒めの言葉を頂きました。グループごとにシスターお一人ずつ入っていただき質問大会もしましたが、ナイジェリアのシスターメイベルのグループでは、いつの間にか皆が踊りだすなど、全員がかなりの盛り上がりを見せてくれました。




その後、聖堂を訪問し、講堂で行われている剣道クラブの見学へ。さすが、日本のマーシャル・アーツの代表、威勢のよい雄叫びと熟達した竹刀捌きは、見る人の心を捉えたと確信します。



私にとってこの日は、ノートルダムが世界に共有するスピリットの広がりの豊かさを感じる一日となりました。生徒たちの若い日々に、世界を感じ、学び、体験することが非常に大切なことは言うまでもありません。でも、最も大切なものは、語学力でも知識でもなく、神から授けられた命を有限の存在として生きるための、生涯を貫く価値観です。これをきちんと携えて生きることは、すべてを凌駕して自分が世界のどこに生きても、人として尊ぶべきものを心から尊び、きちんと向き合って対話し、そこから生まれる共感を育み、自分の心とからだを使って行動していくことにつながります。これが、ノートルダム教育がゴールにしている大切なミッションです。今日、私たちが出会ったシスター方は、そのことを私に再認識させてくださいました。私たちの日々のノートルダム教育は、世界に通用する価値観を育む教育なのです。

最後になりましたが、本日お出会いした5名のシスター方への感謝と、これからのお一人おひとりの使徒職に、神様の祝福が豊かにありますように心から祈っています。





2012年7月11日水曜日

生かし合って生きている (2)

7月10日の続きです。



あるとき、あと3日で出発という時期に、私は相変わらず憂鬱な気持ちになっていた。短大での仕事も一杯残っている。そして何より子どもにつらい思いをさせてまで続ける価値がある研究なのかとすら思うほど、落ち込んでさえいた。そこで、研究室に来ていた3人の学生のうちの一人が、そんな私の心境を知っているはずもないのに、こう言ってくれたのである。「先生、子どもさんも夫もいらっしゃって、イギリスに行かれるのは大変だろうと思うけど、先生がそれでもがんばっておられるのは、私たちにはとっても励みになるんです。私もがんばらないとな~って自然に思えてくる。」
 

琴線に触れる、という言葉があるが、まさしく私はその時、私の心の秘められた場所で、この学生の言葉を受け止めた。そして心が揺さぶられ、涙が溢れそうになるのを、何気なく顔の向きを変えて押さえるのが精一杯だった。立ちすくむ自分の背中を今、優しく押してもらった気がした。強がっても仕方ないと思った私は、学生にその時本音を言った。「私ね、本当はつらいと思っていたの。あなたたちがそう言ってくれるまで、つらくてやめたいとすら実は思っていたぐらいなのよ。でも、やっぱりやめないわね。がんばるね。今日、ここに来てくれて本当にありがとう」と、その時、私は教師が学生に話すようにではなく、励ましてくれた人に向かってお礼を述べるように話した。
 

自信に満ちているような姿をみせていると思ってはいたけれど、実は、学生たちは、私の言わない部分も知ってくれている。それも全部ひっくるめて私を優しく受け止めてくれている。私が今日ここにいるのは、そのようなきらめく一瞬の出会いの積み重ねがあったからかも知れないと感じる。「みんなお互いに、生かし合って生きている」ということは、実は教師としての私が、感謝とともに学生に伝えられる最大のメッセージかも知れないと思う。

2012年7月10日火曜日

生かし合って生きている (1)


皆さまには、私のバックグラウンドをまだ紹介する機会がなかったかも知れません。学校で直接、保護者の皆様にお話する時には、折にふれて私の自己紹介をする機会がありますが、ブログではまだ一度もそのチャンスがなかったと思います。昨日、プロフィールをアップしましたので、またお時間があれば覗いてみていただければと思います。

私は2008年4月にここ母校に戻ってくるまで、聖母女学院短期大学という京都市伏見区にあるカトリックの短大に17年間奉職していました。25歳で2年間、米国に留学し、帰国して翌年から2008年まで、つまり人生の20台後半から40台の半ばまで過ごしたこの場所は、大人としての私の基底部分と、社会人としての私の多様な側面を育ててくれたと言っても過言ではありません。まさに、かけがえのない、そして愛してやまない職場です。私の人生において数々の記念すべきイベントも、この職場と共にありました。専任講師として着任して一年目に結婚し、その2年後に長男を出産、その2年後に次男を出産、それから4年後に在外研修で家族と共に渡英しました。5月中旬のブログで分かち合った、生涯の師として仰ぐアンセルモ・マタイス神父様も、この頃に学長に就任されています。

同僚にも恵まれ、研究仲間として励まし合い切磋琢磨し合いながら、共に激動の大学改革の時代を生き、将来構想、改組改変等々、あの頃にしかできない仕事を一緒に夜遅くまでやった仲間たちは、今でもかけがえのない友人たちです。

あの頃に書いたエッセーの一つを、ご紹介します。少し長いので2回に分けます。




忘れられない一瞬というものがある。研究室で、普通に学生と会話しているはずのその時間が、生涯においてかけがえのない、きらめく時間となることが多々ある。その内の一つを分かち合いたいと思う。
 教師とは、常に学生に何かを与える存在であるはずだ。常に存在そのもので彼女らを力づけたいし、糧となる言葉を与えたい。励ましとなる何かを受け取ってほしい。日々授業で、研究室で、学内外で、そんな「教師」でありたいと思っているのは私だけではないはずだ。そんな私は、学生たちの視点では常に、自信に満ちているようにみえ、強い意志をもち、逆境にも屈せず、明るく前向きに生きている栗本先生と信じられている。おそらくそれは、パーフォーマンスではなく、本当の私の一部であるかもしれないが、無論、私のすべてではない。
 ここ数年、イギリスの母子関係をテーマにして研究を続けている都合上、年に少なくとも一度は渡英することを余儀なくされる。渡英前の慌ただしさは、向こうでの研究の為の事前準備が、短大での業務のただ中に入り込んでくることから始まる。自宅の扉から滞在先の扉までおよそ24時間かけて到着したイギリス国内では、限られた時間にいかに効率よく仕事をこなすか、そのタイムテーブルとの戦いでもある。からだの疲れなどカウントしている間もない。そして24時間かけ帰国、時差ボケと共に残務処理に忙殺されながら、短大での日常の再開。ここまでなら、まだ自分のことだけなので何とかなる。どんなに苦しくとも、自分の研究生活なので文句もない。しかし何よりもつらいのは、この生活に家族を巻き込むということ。このテーマで研究を続けて7年が経つが、子どもがまだ小さかった頃は、たとえ一週間でも、私が出張することを、彼らは言うまでもなく嫌がった。早朝、戸口で泣きながら見送ってくれる子どもたちの姿を、振り返って見ようとすればもう行けなくなると知っていた。
 そんな一連の英国出張に伴うストレスフルな心境は、もちろん非常に個人的なことなので、学生たちに話したことはなかった。
この続きは明日に。

2012年7月7日土曜日

いのちと向き合うということ(2)


7月6日の続きです。バスに母娘が乗っていたところ、2人のご婦人が正面に座られた。

しばらくしたら、その2人のご婦人は、手話で会話を始められたのです。目の前でそういう光景が展開され、A子さんがそれを見ていることに気づかれたお母様は、「耳の不自由な方々が、一生懸命会話しておられるのよ、ジロジロ見てはいけません」とおっしゃったそうです。お母様は、正面のお二人を気遣って、思わずそうおっしゃったのでしょう。そうしたら、A子さんがそれを受けてこう言ったそうです。「ジロジロ見てたんじゃないよ。じっと見てたの。私も手話を習えるかなと思って」と。お母様はハッとなさったそうです。この子の「じっと見ていた」という表現に、お母様は、通り一遍のことを言っている自分に気づかれた。「じっとみていた」そこに込められている思い、それは相手への肯定的な関心であり、「共感」であり「共に生きる」ことに対する欲求であったと。そして、そのお母様は井上先生にこう言われました。「子どもは私をつきぬけていきました」。

私たちは障がいをもっておられる方について、こどもたちに様々なことを知ってほしい、考えてほしいと願っています。そしていろいろな取り組みを行ってもいます。でも、この子どもは既に、「共に生きる」ことがどのようなことなのかを知っている。どうしたら私も、耳の不自由な人と一緒に話すことができるのだろうかと一生懸命問いかけながら、「じっと」見ていたのです。私はこの子どものこの生き方に感動します。「ジロジロ見る」と異なり、「じっとみる」は、温かさを感じるまなざしです。その人に向き合う、その人に寄り添う、その人とつながろうとする。その人の真の隣人になっていこうとうする決意の表現です。A子さんがきっと何気なく使ったそのことばは、実に多くのことを含む愛の表現だった。そのお母様が井上先生に分かち合ってくださったことに感謝します。そして井上先生が私たちにこのことを分かち合ってくださったことに深く感謝します。

私たちは、大人の一方的な「こうあるべき」という理念を信じて伝えがちです。でも、子どもたちは、それぞれの迸る感性で、もしかしたら、私たちを「つきぬけて」、真実をつかみ取る心をすでに授かっている存在なのかもしれません。大人は、その発芽をただ大切に見守ることに失敗してはならないのでしょう。それが、「いのちと向き合う」ことを穏やかに育てる教育なのかも知れません。

2012年7月6日金曜日

いのちと向き合うということ


先週は、全国カトリック学校 校長教頭の集まりが京都でありました。北は北海道北見から、南は鹿児島まで、全国カトリック小中高で合わせて80校以上の校長たちが一堂に会しました。テーマは「いのちと向き合うカトリック学校」、特に昨年3.11以降の東北の子どもたちの様子がとても気になっていたので、そのあたりも直接いろいろお話が聞けたらと希望していたら、会場前では模造紙20枚にわたって、被災地の子どもたちが震災前後から今日までの振り返りを書いたものが展示されていました。東北の子どもたちの肉筆から伝わる思い、家族や友人への心を直接目にすることができ、非常に貴重な機会でした。

集まりでは、カトリック学校の様々な方面の取り組みや、教育観の分かち合いが行われました。その中で、今日から明日にかけて、ご本人のお許しを得て、京都聖嬰会の前施設長でいらっしゃった井上新二先生のお話の一部を分かち合いたいと思います。先生の非常にやわらかな物腰と温かいお声に運ばれたメッセージには、「いのち」に向き合って生きるとは何なのかについて、深い示唆が含まれていました。

井上先生が、まだ公立小学校にお勤めだった頃の印象的なエピソードです。それはあるお母様が先生に分かち合われたお話だそうですが、そのお母様と娘のA子さんがある日、市バスに乗っておられました。そうしたら、2人組のご婦人がバスに乗ってこられました。そして母娘のちょうど前にお座りになりました。

この続きは明日に。

2012年7月3日火曜日

時間の神秘について


長らく一週間も空けてしまい、申し訳ありません。7月に入り、鹿ケ谷を包む緑が雨に美しく磨かれています。一枚一枚の葉が、眩しい新緑の頃から幾分成長し、しっかりとした深い緑へと変容しつつあります。この葉たちは、盛夏の厳しい頃、私たちのために優しい木陰をつくってくれる頼もしい存在になってくれることでしょう。私たちと共に歩む自然は、自らの存在でもって、すべてのことに時があることを示してくれています。

学校は来週から期末テストを迎えます。現在は、職員室前の談話コーナーのスペースに、時間を惜しんで先生に質問にくる生徒たちの列、いつまでも時を忘れるように生徒たちに寄り添う先生方、そのような光景が完全下校時刻まで続きます。夕暮れが訪れ、談話コーナーの窓辺が赤みがかったオレンジ色に染まる頃、生徒たちは時計を見ながら「ああ、もうこんな時間!」とつぶやきながら、「ありがとうございました!」と帰っていきます。

みんな時間との戦い。もしかしたら教師である我々も。机の上に積み上げられた書類、目を通しておかねばならない会議録、読むと約束した書類、書くと約束した原稿、会うべき人、出るべき会議、行くべき集まり等々。

「時間」について考えたいと思いました。みんな一様に与えられてはいるものの、それについてきちんと説明を求められれば、とたんにわからなくなる。人生に深く関わる大きな概念なのに、あたかも何気なく通り過ぎる風のようにかわしてしまうもの。今を生きながら、その今はすぐに過去になり、未来を見すえているつもりが、その未来も瞬く間に今をくぐりぬけて過去になろうとする。私にとって、時間とは、「生」「死」、このような次元と等しいほど、とてつもない神秘です。

ミヒャエル・エンデが、「モモ」という作品の中で、このようなことを書いている下りがあります。彼も時間を神秘と呼んだと知りました。

「大きいけれど、ごく日常的な神秘がある。すべての人がそれにかかわり、それを知っている。しかし、ほんのわずかな人々だけがそれについて考えている。この神秘こそ時間。
時間をはかるためにカレンダーや時計があるが、それには大した意味がない。だれもが知っていることだが、その時間に体験したことの内容次第で、たった一時間が永遠のように思えることがあるし、一瞬のように思えることもある。時間は人生だから。そして、人生は心の中に宿っているのだ。」

結局、時間とは自分自身である、といっても過言ではないかもしれません。一瞬一瞬の積み重ねが私の人生をつくる。今この瞬間が、私の生きざまをつくっている。その一瞬に、どう生きるか、その一瞬の出会いに何を求めるか、その一瞬の微笑みをだれに投げるか、その一瞬に何をするか。その一瞬の選び、人生はその連続です。

時を忘れて生徒に寄り添う先生たちは、山積みになっている仕事を職員室の机に置きっ放しで、生徒の完全下校まで生徒たちと共にいることを選んだ人々。人生を生徒に寄り添うと選んでいる人々。この学校はこれらの方々の人生の選択によって、今日まできたのだと思います。尊い時間の積み重ねが、この学校そのものなのです。