2013年4月6日土曜日

ノートルダム女学院中学校・高等学校 入学式 学校長式辞


 新入生の皆さん、ご入学、おめでとうございます。保護者の皆様、本日はお嬢様のご入学、誠におめでとうございます。ご来賓の皆様、ご多用の中、本校の入学式にご臨席賜り、誠にありがとうございます。
 さて、改めまして、新入生の皆さん、私は、皆さんお一人おひとりを、ノートルダム・ファミリーのメンバーとしてお迎えできることを、心から嬉しく思っております。皆さんは、様々な道を通って、今、ここに集って来られました。私たちは、今日たまたま出会って、すぐまた散り散りばらばらになってしまうのではありません。これから私たちは、このノートルダムという家で、一緒にいろいろなことを学び、発見し、成長して行くことに招かれているのです。私は信じています。皆さんをここに招いたお方がいらっしゃるということを。「あなたの場所はここなのですよ、ここで一輪の美しい花となって咲いてください」と優しく導かれたお方がいらっしゃるということ、私は信じています。そのことを今日、あなたに伝えたいと思います。あなたが中学校の3年間、高校での3年間を、ここで喜びながら成長し、自分に何ができるのかを探し、自分の力を、自分の時間を、自分の命を、だれかのために喜んで使うことのできる人に成長していかれることを、だれよりも望み、それを待っておられるお方を、私は神と呼びます。
 
 ノートルダム女学院は、皆さんが生まれるずっと前、60年も前に、神が私たちを愛して下さっている、そのことに気づいてほしい、という熱心な思いひとすじで、アメリカからはるばる来られたシスター方によって建てられた学校です。それから60年、ただ神への熱い思い以外に何も望まず、人々、特に若い皆さんの教育に奉仕したいという、最初のシスター方のミッションへの熱意が受け継がれ、ノートルダム女学院をここまで成長させました。人々は、これをミッション・スクールと呼びます。ミッション・スクールである本校で、皆さんは、一人一人の人生の土台となる考え方や生き方を学びます。ノートルダムが、学校生活を通して皆さんにどうしても伝えたい、大切なことを、私は今日、皆さんにお話しましょう。私の今からの話は、二つの問いかけに応えることになります。一つめは、ノートルダム女学院は、どんな学校か、という問いかけです。そして、二つめは、ノートルダム女学院で、私たちは、何のために、何を学ぼうとしているのか、という問いかけです。

 ノートルダム女学院は、どんな学校か、この答えは、「みんな一人ひとりが、日々、愛することを学んでいる学校である」ということです。神に愛されて生まれた皆さんは、一生を愛されるだけで終わることは決してありません。いつかは、生きることの最終目標である、愛することのできる人になるように招かれています。けれども愛することは、決して簡単なことではありません。愛するとは、好きな人、気の合う人と仲良くするということだけではない。好きな人、気の合う人の数をどんどん増やしていくことだけでもありません。愛するとは、時にはそのために、自分の特別に大切なものを使ってしまわなくてはならないこと、意志の力が必要なこと、苦しいこともあるでしょう。でも、私たちが本当に愛することのできる人になりたいなら、神はきっと助けて下さいます。そして、あなた自身を、だれのために、どのように使っていくのか、必ず教えてくださいます。
それは、二番目の問いかけに応えることにもなります。この学校で、何を、何のために学ぼうとしているのか。それは、この学校がお手本にする、イエス・キリストの生き方です。そして、イエスのお母様であるマリア様の生き方に、深く関わります。すなわち、困っている人、弱い立場に立たされている人、助けが必要な人に、自分の大切にしている何かをそっとさし出し、その人のために生きる。ノートルダムで学ぶ皆さんは、神に導かれながら、一人ひとり、そのような人になることを学んでいくのです。皆さんの先輩である上級生も今、あらゆる機会を通してそのことを学んでいます。それは一生かかる長い道のりです。だから、実は、私自身も、先生方も学んでいます。職員の方々も学んでいます。「愛する」ことは、大人になったからといって、自動的にできるようになるものでは決してありません。ゴールに向かって失敗しながら成長を続ける中で到達できる、最高の目標だからです。ですから、この遠い目標からみれば、先生方職員の方々も、あなた方よりも少し前を歩んでいるに過ぎないのです。でも一歩の違いは確かに大きい、だから、皆さんは、教職員の方々から、上級生の先輩から、たくさんたくさん、学んでください。世界をもっと知ってください。困っている人々が、どこにいるのか探し出すためです。望まずして弱い立場に押しやられている人々が、どこで泣いているか、何に苦しみ、何を嘆いているかを知るためです。そしてこの宇宙は、どのようにしてでき、今どう成り立っているのか、この自然環境は、どうすれば保っていけるのか、人間同士ばかりでなく、人と自然は、どのようにしたら本当の意味で支え合い、健全につながっていられるのか、それらをしっかりと知るためです。皆さんがこれから、中学で、高校で勉強するのはこのためなのです。自分にできることをしっかりと見つけてください。それが「学習」の意味です。皆さんの、そして私たち全人類に課題として与えられている「学び」の真のゴールです。そして、このプロセスは、私たちを愛してくださった神に応えて、愛する人になっていくために必要な、ご自身への糧となるでしょう。ノートルダムの教育は、すべて、この「愛すること」に、向かっているといっても過言ではありません。
 新入生の皆さん、今日から、私たちはノートルダムという家族のメンバーとして、一つ屋根の下で、自分と他者を大切に慈しみながら、ご一緒に道を歩んでまいりましょう。神はいつも必ず、私たちと一緒に歩んでくださいます。神が共にいて下さることに信頼して、一日一日を丁寧に生きてまいりましょう。今日からの学校生活を通して、皆さんの上に、神様の祝福が豊かにありますようお祈りします。



2013年3月22日金曜日

ノートルダム女学院中学校 卒業式 学校長式辞


卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。
保護者の皆様、高いところからではありますが、本日はお嬢様の中学ご卒業、誠におめでとうございます。また、溝部名誉司教様、シスター和田理事長様を始めとするご来賓の皆様、本日はご多用の中、本校中学校卒業式にご参列いただき、誠にありがとうございます。

本日、皆さんは、3年間のノートルダム教育を終えられました。今年度2012年度は、ノートルダムにとっては、創立60周年の節目を迎えた大切な年でした。60年というと、皆さんの想像もつかない長い年月かもしれません。でも、この60年間、変わらずにノートルダムがいつの時代にも伝え続けてきたことは、やがて、ノートルダム女学院中学校の深い知恵の源となりました。卒業に際して、皆さんにもう一度それらを伝えます。ここにいる皆さんの大半は、さらなる3年間をノートルダムで過ごされますが、中には、ノートルダムを今日、出発するという方々もおられます。その方々も含めて、皆さんのかけがえのないここでの3年間の学びを、どうか、一生の糧にしていただきたいと思います。

この世界は、そしてこの宇宙は、すべてを超える大きな愛そのものである神によって創造されたと、ノートルダムはあなたに知らせてきました。愛によって創られないものは、命として存在することは決してありません。星も、海も、山も、草木も、花も、空の鳥も、地の動物たちも、そして、私たち自身も、生きとし生けるすべての命は、大きな愛によって創られ、だからこそ互いに連鎖し、つながり合って育まれ、成長し、そして、この世界での使命を得て、それを果たし、そしてやがては愛に帰っていく。かつて、朝礼の時間だったかに、あなたの命は、お父様、お母様、その方々のご両親、そのご両親と、さかのぼって一体何人の人々の存在によって可能になったのかという話をしたかと思いますが、それはそれはおびただしい人々が、あなたの命の存在のために深く関わり、その中の一人でも違っていたら、今のあなたは存在しませんでした。一つの命の誕生に、どれだけの人々の人生と、出会いと、生きざまが関わっているか、その気が遠くなるような、でも、真実の愛の連綿たるつながりこそが、神の愛の呼吸であり、神の愛の時間であり、神の愛の証しです。ですから一つの命はこんなに尊く、その存在はあまりにも重いのです。あなた方はお一人おひとり、ここノートルダムで、そのことをしっかりと学んでおられます。

あなた方の命は、この世に望まれて存在し始め、まだ15年ほどしかたっていません。ですから、ご自身に何ができるのか、ご自身の可能性はどこにあり、どこで花開くのか、それを今、皆さんは模索しています。一人ひとりは、神から使命を受け、それを果たし、神のもとに戻る、あなた方は、どうか神に聴いてください。「私に何を望まれていますか。私はあなたから頂いた命を、だれかのために、何かのために、どのように使えばいいのですか」と。どうかそれを、神との対話の中で心静かに聴いてください。それこそが、祈りです。神様は、あなたがそれを真摯に尋ねる時、必ず耳を傾けて聴いてくださり、そしてあなたに応えられるでしょう。神が直接、そのみ声でもってお応えになることもあるかも知れませんが、様々な人との出会い、言葉との出会い、出来事との出会い、それらの出会いを通して、神はあなたに語りかけられます。神は、あなたのために特別に用意されている時をお選びになり、その時でしか成し得ない出会いを与えてくださいます。どうぞ、その「時」に敏感に、そして与えられた「出会い」を神からのギフトとして豊かに受け止め、あなたの糧とし、成長を続けてください。

2年前の3月、日本中を、大きな哀しみと苦しみと、そしてそれを乗り越える強さへと導いた、東日本大震災。その時以来、人々は本当の対話の大切さに気づき始めたと言われています。そして本音で語り合うようになった。表面的、上面だけの会話や、その場限りのやりとりだけでやり過ごすには、人生はあまりにも不確実で、不確定である。また会える、また話せると思っていても、もう二度と会えないかも知れない。ありがとうと言いたい、ゆるしてほしいと語りかけたい、そう願っても、もう二度とそのチャンスは与えられないかも知れない。やりたいこと、やるべきこと、言いたいこと、言うべきことを先延ばしにして時間をやり過ごすには、それぞれに与えられた持ち時間はあまりにも短く、この世は不確実です。でも、人間の心と心のつながりは、そのような不確実な時間と空間の中で、愛に満ちた絆を探し求める存在なのだと、あの日以来、私たちは知り始めています。今、与えられているこの時に、本音で語り合い、心から対話し共感し合うこと、行うべきことを躊躇せず行うことが、どれだけ大切でかけがえのないことであるか、そのことをようやく、理解し始めた。これは、私たちに与えられた新たなる知恵であり、苦しみを越えて到達した真理でもありました。

今日で、ノートルダム女学院中学校での三年間を終え、新たなステージにさしかかろうとする皆さん、皆さんのこれからの青春の時間は、煌めく宝石のような時間です。それは意外に短く、でも想像しているよりははるかに、堅固な土台となって、今後の皆さんの人生を支えるものです。どうか、今のこのかけがえのない十代の青春の時間を、心を尽くして魂をつくして、神と他者と自己に誠をもって生き抜いてください。心から対話し、心から共感し、つながり合って共に生きる。すべてが失われても、最後に残るものは、そうやって培った心と心のつながりであり、神が最もお望みのことであるということを胸に刻んで、次の扉を開けてください。

神の祝福が皆様の上に豊かにありますように、お祈りいたしております。




2013年3月1日金曜日

2月28日、第58回卒業式を挙行いたしました。


創立60周年を機に、2012年度より、本校のルーツである米国の姉妹校に合わせて、キャップ&ガウンを身にまとって、139名の生徒たちは、それぞれの夢を胸に、この学び舎を巣立っていきました。
当日の学校長式辞を、以下に掲載いたします。





皆さん、ご卒業おめでとうございます。今日の皆さんは、マリアン・ブルーのガウンに身を包み、眩しく輝いて見えます。保護者の皆様、高いところからではありますが、お嬢様のご卒業、誠におめでとうございます。本日のお喜びの日を、ここでこのように共にできることを、心より幸せに思っております。パウロ大塚司教様、シスターモーリン和田理事長様を始めとするご来賓の皆様、本日をこのように共にしていただくことは、私たちの大きな喜びでございます。誠にありがとうございます。

卒業生の皆さん、このように私がこの壇上から皆さんに向かってお話しすることも、もう、これが最後になります。ノートルダム女学院での大切な時間は、この139名の方々に同じように与えられ、それは同じように過ぎ去っていくように見えますが、実はその中身は、一人一人に特別に用意され、時機を得て計らわれ、与えられたものです。すなわち、この時間のすべては、神様からのあなた方一人ひとりへのかけがえのないギフトでした。まわりの人々や出来事、事物に、尊敬をもって対話的に関わり、その関わりの中で培われた共感力と行動力をもって、あなた方はまもなく、それぞれに用意された次の扉を開き、次のステップへ進んでいかれます。そこには未知の世界が広がっており、皆さんは、それぞれの人生を、より独自に、創造的に生きることに招かれています。その扉のノブに、今手をかけようとするあなた方お一人おひとりの背中に向かって、私はその後ろに立ち、大切なことを最後に知らせます。それは、あなた方が卒業しようとしているノートルダム女学院が全身全霊であなた方に知らせたかったことです。

ノートルダム女学院は、あなたに、この世界であなたは決して孤独ではない、ということを、あらゆる機会を通して知らせてきました。あなたをこよなく愛し、喜びとご苦労の中で大切にお育てになったご両親の心、何気ない日常の中で、楽しかったことや辛かったことを共にしたかけがえのない友人たちの心、そして、どんな時もあなたを励まし勇気づけることを忘れなかった教職員の方々の心、あなたは、これらの沢山の心にふれあい、一番大切なことに気づいたはずです。それは、ここノートルダムであなたは、すべてを包み、そしてすべてを超える神の愛の中におられたということです。そして、それを知ったあなたは、これからも、神の守りがあなたを離れないことをも知っているはずです。あなたが神の愛の中で生まれ、あなたの青春の日々が神の愛の中にあったように、これからも、あなたは、愛されて生きる人としてどうか、あなたが出会うすべての人々にとって、光であり、希望であってください。この世界には、孤独な人、苦しんでいる人、弱い立場に押しやられて泣いている人々がたくさんいます。あなたのすぐ近くにも、そして遠く海の向こうにも。まなざしをしっかり神に向けて進む時、神はそれらの人々の存在をあなたに知らせてくださることでしょう。どうか、それらの人々の隣人となり、彼らを愛し抜き、彼らにとって光となり、希望となってください。ノートルダムで教育を受けたあなたには、それがおできになると私は信頼を持っています。

ノートルダムで学び始めたばかりのあなたは、まだ幼く、自分にいったい何ができるのかを知りませんでした。でも、在学中に、沢山の課題に向き合い、それを解決しようと悩み、考え、困難に打ち勝ってこられました。それらをくぐり抜けられたあなたは、今、一人ひとり、美しく輝く18歳の姿を、私たちに見せてくださっています。自信をもって、扉を開けてください。扉の向こうの世界で、あなたはノートルダムで開花し始めた可能性をもって、神に派遣された場所で、ついに一輪の美しい花になります。その花は、一輪一輪、神から与えられた使命を持っています。どこでどのように咲くか、それは神のみがご存知でしょう。一人ひとりに与えられた使命はその人固有のもの。その使命を果たすために、大いに愛し、愛し抜き、時には戦い、時には休らい、それらの日々に神は常に絶えず、あなたと共にいてくださる、そのことを信じ、全力であなたの生命を燃やしてください。それが、私の、あなたがたお一人おひとりへの、切なる願いです。

昨年10月びわこホールにおいて、皆で盛大にお祝いしたノートルダム女学院の新しい門出は、ちょうど60年前、日本の地に勇敢に降り立った、ミッションへの最初の熱意がなければ叶わないことでした。私は、あの日、ノートルダムの初代校長シスターメリーユージニアレイカーに、私の祈りの取り次ぎを願いました。戦争に負け、物資貧しい日本、京都の東の山すその、何もない鹿ヶ谷、そこで一からすべてを始められたシスターユージニア校長は、何を思い、何を祈り、何も夢見て、この学校を建てられたのか、そのことに思いを馳せました。60年が経ち、1万人以上の卒業生を輩出するカトリック女子校に成長したその先端において、今と未来の責任を担う今日のノートルダム女学院は、もはや、過去の経験や知識に頼るだけでは生きてゆけない新しい時代に存在しています。願うことは、めまぐるしく移り変わる社会の只中で、時代を読み取るしなやかなヴィジョン、グローバル化が加速度を増す中、そのひずみに目を向け行動するための感性、しかしながら、私にとって最も大切な願いは、女学院に学ぶ一人の人格が、いつの時代においても、神の愛を信じ、その愛で自己と他者を、誠をもって大切にできる女性になることであり、ノートルダムがその学び舎であり続けることです。

今日、私はこの学年の卒業生に特別なプレゼントをさせて頂こうと思います。それはあなた方が、記念すべき、創立60年目、ダイヤモンド・ジュビリーの年に、この学び舎を巣立つ生徒たちだからです。1952年4月15日、本校最初の入学式での学校長シスターユージニア・レイカーの英語の式辞の一部です。敗戦後3年しか経たない占領下の日本で学校の設立を着手され、3年後の1952年に開学。それはポツダム宣言を受諾した日本が、自らの国家を取り戻そうとしている時と重なっています。初代校長は、米国人として、戦争でズタズタに傷ついた日本人に対して、和解と友愛の心情で対話され、誇りをもって生きるように呼びかけられました。あなた方に今日、この入学式でのスピーチをプレゼントします。

True education does not consist merely in acquiring knowledge. Fundamentally considered, education consists in the formation of character, in the development of all that is good and noble in the human being, to the end that he or she may attain her own happiness as well as the happiness of her fellow-beings.  Hence the school’s motto is VIRTUS ET SCIENTIA.  We hope you will always be true to this motto combining with knowledge a virtuous character that will make you an honor to God, to your parents, to your school, and to your country.

(和訳)
真の教育は単に、知識の獲得のみにあるのではありません。教育はその人のうちにある善なるもの尊いものを成長させながら、その人格を磨いていくことに他なりません。そしてついには、自己のみならず、他者を幸福にすることができる人間になることです。
故に、VIRTUS ET SCIENTIA 「徳と知」は、この学校のモットーなのであります。あなた方は常に、このモットーに忠実に、知識に加えて徳の高い人格をめざし、神が、そしてあなた方のご両親が、この学校が、そしてあなた方のこの国が、誇りとする人になってください。


きっとシスターユージニアも、神の国から今日、ここにいる私たちに祝福を送って下さっていることでしょう。

私が大学生の時、私に個人的に聖書を一緒に読んで下さっていたシスターユージニアは、ある時、私に、ご自身が純白の毛糸で編まれたマフラーをくださいました。私はもったいなくて、なかなか使うことができなかったことを憶えています。でも、校長になった最初の冬、今年、大切にとっておいたそれを、私の肩にかけてみました。30年以上経っても、シスターのマフラーは、眩しく白く温かく、私を包んでくれました。身にまとうものには意味があります。あなた方がマリアン・ブルーを今、身にまとっていることにも意味があります。あなた方がノートルダムで得たすべての愛に満ちたものを、このマリアの色であるガウンに託し、それを身にまとって卒業してください。振り返らずに、前に進み、恐れることなく今、未知の扉を開けてください。

神の祝福が皆さんの上にいつも豊かにありますように、お祈りいたします。

2013年2月6日水曜日

ミッションスクールって何でしょう?


今日は、風邪やインフルの予防のために、通常の講堂や聖堂で行っている集会型の朝礼に代わって、全校放送朝礼を行うことにしました。原稿を用意したのですが、朝礼が終わって読み返してみると、これこそ、読者の皆様に知って頂きたい内容だったと改めて思ったのです。

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皆さんおはようございます。本日は、インフルエンザや風邪を予防するために、大勢の人々が一堂に会することを避けようと、放送で、私の話を聞いて頂くことになりました。

私が折にふれてこれまでに話してきたことの中で、このような機会、すなわち、全校の人々が、生徒の皆さん、教職員の方々がおられる時に、話しておきたいことがあります。何度も、何度も、これまでに話してきたことかもしれない。でも、この学校にとって、存在の根幹に関わることを、今日、私は皆さんにもう一度触れてもらいたいと思うのです。今、中1から高2まで、この話をHRで聞いてくださっているので、私はこの話を、ちょうど真ん中に位置している中3の方々の理解に合わせて話そうと思います。だから、中1の皆さんにとっては、ちょっと難しく思うかもしれませんが、がんばって、理解してみようという気持ちで聞いてください。

この学校は、カトリックのミッションスクールであるということは、すでに知っていますね。で、皆さんのお友達やおばさんやおじさんに、あなたが通っているノートルダムは、ミッションスクールってきいたけれど、一体、それって、何ですか?と尋ねられたら、あなたはどう答えますか?「さあ、しらない」ではあまりにも恥ずかしい。ご自分が、大事な青春時代の日々を、この学校で送ることを選んだのです。単に、ホームルームが楽しければいい、友達がいっぱいできればいい、先生がよい先生であればいい、それだけでは、本当のノートルダムのコアな価値に触れているとは言えません。今日は、この放送の後、あなたが通っているノートルダムは、こういう学校なのだとご自身で納得していただきたい、そして、あなたの周りの人々にも、わかりやすく説明できるようにしてもらいたい。それが今日の放送の狙いです。

この学校が、アメリカ人の4人のシスターによって、60年まえに設立されたということをすでに私が創立記念日を始めとして、様々な場面でお話をしてきました。そしてこれも、もう、幾度となく話していますが、私も、ノートルダム女学院の生徒でした。皆さんと同じ茶色の制服を着て、この鹿ケ谷の坂道を毎日登り登校してきました。
私が女学院に通っていたころは、まだベールをかぶったシスター方がたくさんおられて、英語や国語や社会や理科や家庭科や宗教など、シスターたちからたくさん学びました。でも、実際には、私にとってシスターから勉強を学んだということよりは、はるかに、シスターという人がこの世の中に存在していることのほうが興味深く感じました。そして、なぜ、この人たちはお隣の修道院、今はユージニアハウスと呼んでいるこの不思議な場所に、たくさん集まって生活しておられるんだろう。何が楽しくて毎日ニコニコして生きておられるんだろう、好きな人はいないんだろうか?恋愛してもいいんだろうか?とかいろいろ素朴に思ったものでした。そして、しばらく時が経って、はっきりとわかったことがありました。どんなシスターも、優しいシスターも怖いシスターも、大好きなシスターも、私自身ちょっと苦手なシスターも、みんな共通な一つのことがあるとわかったのです。それは、イエス・キリストという人に惚れ込んで、ここまで来られたのだということでした。イエス・キリストって、相当にすごい人のはずだ。だって、こんなにたくさんの人が、実際に信じているだけでなく、自分の一生を賭けて、キリストに倣って生きたいと望んで、共同生活を実際にしてしまうなんて、それって、結構凄いことじゃないかな、と思ったわけです。週に一度教会に行くっていうだけでなく、一生涯を、イエスのために生きよう、イエスのように生きよう、イエスを伝えるために生きよう、と決意することができる、そんなイエスってどんな人だったのだろう。神様だって言っているけど本当かなあと、生徒だった私は、本当にイエス・キリストのことが知りたくて知りたくてたまらなくなったのでした。そしてこんなことがわかったのです。

イエス・キリストという、もう2000年も前に生きていた人がいた。ユダヤ人、男性。マリアという女性から生まれた人。お腹が空いている人たちにパンと魚をたくさん増やして祝福の内に与えた人、だれにも相手にされなかった人の家に行って一緒に食事をした人、たくさんの病人を癒した人、死人を生き返らせた人。盲目の人の目を開けた人、敵を愛しなさいと教えた人。出かけていって困っている人、虐げられている人、弱っている人、傷ついている人の隣人になりなさいと教えた人、友のために命を捨てることよりも大きな愛はないのだと教えた人。たくさんのたとえ話をもって、私たちに神様の大きな大きな愛について教えた人。嵐を鎮めた人。幼子を抱き寄せて祝福した人。神殿の前の商売人を追い出し、出店をひっくり返して教えた人。祈りを知らない人々に誰に向かって何をどう祈るのかを教えた人。私は道であり、命であるといった人。99匹の羊を山に残して、迷った一頭の羊を探しに行くと言った人。多くの人に本当の喜びと魂の生き返りを体験させた人。命の言葉を話した人。救いの言葉を話した人。最後の晩餐で、どれほど弟子たちを愛しているのかと説いた人。そして本当に弟子たちを、周りの人々を心底から愛した人。その弟子たちに裏切られても尚許した方。そしてだれにも理解されずに、33歳でこの世を去った方。そして、死んで3日目の朝、復活された方。そして復活後、弟子たちに現れ、3度裏切った弟子のペテロに「私を愛しているか」と3度尋ねた方。そして臆病だった11人の弟子たちを、180度変えてしまった方。それ以降、弟子たちは、何も恐れず、力強くキリストを宣べ伝え、そして、その弟子たちの弟子たち、そのまた弟子たちが、今日まで、ひと時も絶やさずにイエス・キリストの教えを広め、シスターたちから私が、その教えを学びました。2000年の時が、こうしてつながっているわけです。今、私はあなた方に、この方の話をこうして伝えています。私だけではなく、この学校のいろいろな場面で、あなた方はイエス様の言葉を得て、その教えを心に留める機会をどうか大切にしてください。 イエスの最も大切な教えは、「愛しなさい、そうすれば生きる」ということです。「生きる」とは単に食べ物を取り入れて生物的に生きるという意味を超えて、与えられた「命」を全うする、本当に「生きる」ということです。イエスは「生きる」ことは「愛すること」であるとはっきりとおっしゃっています。そのことの意味を、このノートルダムでつかんでほしいと思います。そのために、あなた方がその意味をつかむために、この学校は存在しています。そのためだけに存在 しているといっても本当は過言ではないのです。

ところで、冒頭私はミッションスクールとは何ですか?と質問しました。
ノートルダムは、皆さんにとっての中高時代という時間を育む場所であります。そして、その場所は、単にいつのまにかあったのではなく、今話したような生き方をされたイエス・キリストという存在の生きざまに最大の価値をおいて、これが、私たちのめざすべき学校のハートである、と世の中に宣言している学校のことなのです。時代が変わり、そこに生きる人々の顔ぶれが変わっても、尚変わらないものを知っていて、それを受け、そしてまた渡し、大切に伝えながら、その時代時代を生きていく学校。それがミッションスクールです。皆さんは多くの人々の愛情によって大切にされてきた学校に暮らしているのだということを覚えておいてください。そして、最も大切なことは、皆さんが一番新しい時代の先端に、こよなく愛されて生きる生徒である、ということです。今日、私が伝えたいことはそのことです。

今日も恵みに満ちた一日でありますように。

2013年1月21日月曜日

神は私たちと共におられる


美しい書を頂きました。校長室に入ったところに掲げました。2013年の幕開けに、部屋が凛とひきしまりました。

この言葉は、マタイによる福音書のはじめの部分に出てきます。イエスのご誕生に際して、主の天使がマリアの夫ヨセフに告げられる場面に登場します(マタイ1章23節)。「インマヌエル(神がともにおられる)」と呼ばれる子ども、それがイエスご自身。イエスがこの世界の一角であるベツレヘムに生まれ、ナザレにおいて幼少期から少年期を経て成人され、人々に教えを説いて十字架の死を経て復活される、このすべての出来事をとおして、神ご自身が私たちに示されたメッセージは、「神は私たちと共におられる」ことでした。

イエスの死と復活から2000年以上経った今を生きる私たちに、このメッセージはどのように語りかけるでしょうか。何があっても、どんなことが起ころうとも、「神が共におられる」ことを信じる―これこそは、私たち一人ひとりに、イエスの誕生と共にプレゼントされた神様からの「招き」であると私は思っています。

以前、私の友人が重い病気にかかりました。二人の幼い子どもたちを残して、もう助からないことが分かっていました。彼女に、そして彼女の家族に襲いかかる大きな哀しみを前に、私は初めて、神様は理不尽だと怒りの気持ちを憶えました。そして、私の尊敬する神父様に、私の気持ちをぶつけたことがありました。「なぜ、神様はこれを許されるのか、なぜこんなことが現実に起こることを放っておかれるのか、私には到底、理解できません!」と泣きながら訴えました。彼は、死にゆく私の友人からも、とても慕われていました。彼は私をじっと見て、「神は、ご自身が愛してやまない我々人間に、自由意志と知恵を与えられた。病気も、事故も、戦争も、人間の営みに無関係なものは何もなく、現実に否応なく起こってしまう。様々なことで引き起こされる人間の深い哀しみについて、それをじっと見守られるのが神だ。決して見捨てないのが神だ。そして哀しむ私たちの傍らに留まり、一緒に泣かれるのが神だ。あなたは、その神を信じていますか。」と、神父様は逆に私に問われました。私は黙って泣いていました。でも「共におられる神」について、彼が私に問いかけた貴重な時でした。その友人は、それからしばらくして、神のもとへ召され、今はその神父様も、天において永遠に神と共におられます。三人のうち、私一人が今なお、この世の命を生きている ― 生きることと死ぬことは、私にとって永遠の神秘です。この世で生きる時間、どんな時にも、神が私と共におられること、そのことを私が心から信じて毎日を生きる決意があるか、彼が私に問いかけたその問いを、この書は思い出させてくれます。

一月,二月は入試のシーズン。ここノートルダム女学院から志望大学へ果敢に受験していく皆さんと、この女学院へ緊張した面持ちで受験に来て下さる小中学生の皆さんに対して、私は同じ気持ちです。一人ひとりに、神が共にいてくださいます。安心してご自身を委ねてください。そして知ってください。必ず、あなたにとって最善を取り計らってくださる神様が、いつもあなたと共におられるということを。