2012年5月31日木曜日

英国の母親たちのことばを追いかけて ~ 6月11日の家庭教育講座の準備です


6月11日に、父母の会主催の家庭教育講座が午前10時から本校であります。そこでお話する内容を、そろそろ準備しなければ、と思いながらやっと机に向かっていますが、3分も経たないうちに電話が、10分もしないうちに来客がという具合です。すなわち、校長室でものを書いたり読んだり考えたり、という一人で行う仕事の時間が確保されるのは、だいたい夜の7時以降が普段の流れです。ということは、この場所で、日が暮れるまでにしているメインの仕事は何かというと、ほとんどが人と話すことであると言っても過言ではありません。

「話す」「対話する」ことについて、30代、40代前半の頃の時間を費やして、自分なりに考えていたことがあります。ある時、不思議だと思ったことがきっかけで(何が不思議だと思ったのかは後日お話しましょう)、話し言葉の分野に興味を持ち始め、日本語の話し言葉をもっと深く知るために、英語の話し言葉と比較していろいろ調べていた時期があるのです。
思えば今とは私の日常の時間の流れ方が全く異っていました。その時期、夫と私のそれぞれの関心分野で一致した国イギリスに、1年間両者とも仕事を離れて家族で暮らす機会がありました。文化や言葉の概念などまだはっきりと持っているはずもない6歳と4歳の2人の息子にとっては、イギリスはオクスフォードの公立小学校と保育園の世界は、想像もしない生活の一大転換だったようです。これらのことについては、11日の家庭教育講座でお話することになるでしょう。なぜならば、今回の私のトークのテーマは、イギリスと日本の母親たちの子育ての在り方、特にことばの用い方に着目することになるからです。

私が非常に興味深く感じた、英国滞在中に気づいた現象は、子どもたち(私にとっては英国の地元の公立学校に通うこどもたち)の言語表現が、日本人の子どもたち(私の息子たちに代表されるごく平均的な彼ら、とお考えいただきたい)のそれと、確かに異なっているということでした。どのように異なっていたか、それは次回のブログでお話したいと思います。その違いは、ルーツを辿れば結局は、彼らにとって最も身近な母親たちのことばかけの違いがその発露になっているのではないかと思ったのです。
では、次回に。

2012年5月28日月曜日

私がエネ・チャージできる場所 ~ クリスチャン・ファミリーの集い


5月26日は、本校のクリスチャン・ファミリーの集いがあり、私も参加させていただきました。この集いは、本校に在校中のクリスチャン生徒とその家族、卒業生とその家族、また、教職員でクリスチャンの者たち、そしてこれらの人々を豊かに支えてくださるシスター方で構成される集まりです。決して大きなグループではありませんが、キリスト・イエスを仰ぎ見る者たちの絆で結ばれるノートルダム・ファミリーの集まりという言い方ができるでしょう。


土曜日に授業が開講されている現在、主たる参加者は大人たちになりますが、今回の5月の集いは、ノートルダム・ファミリーのメンバーに新たに加わった人々の歓迎の集いでもあったので、中1と高1の新入生のお母様方を新たにお迎えして、和やかなひと時をもつことができたことは、私にとって大きな喜びでした。

私の恩師でもあり、数年前まで校長であられたシスターが、ご挨拶の中で「ここは発電所のようなところ、みんなエネルギーをもらってまた新たに出ていくところ」という表現をされました。本当にその通りだと実感します。

皆で和やかにランチ・テーブルを囲みながら、一言ずつ近況の分かち合いをします。久しぶりにここに帰ってきました、と言われるOGの方々、どのようにご自身が神様と出会い、信仰に導かれたか、今、自分が、あるいはご家族が、それぞれの境遇でどのような心でそれぞれの道を歩んでおられるか、これらの分かち合いを聞いていて、いつも胸が熱くなります。そして一人ひとりに細やかに働かれる神様のみ業を讃えます。

ある新入生のお母様は、「やっとここまで、辿り着いたという感じです。娘を、この環境で学ばせたいとずっとずっと固く強く思っていて、その夢が叶ってこれほど嬉しいことはありません。ノートルダムでないとダメだと思っていましたから」と言われ、嬉しく思うと同時に、このお母様や生徒の期待に益々応えたいという気持ちで一杯になりました。そして、今と未来のノートルダム教育について責任を担っている者として、新たな気持ちで「さらに輝くノートルダムづくり」に取り組みたいと強く望みます。

幅広くまた深い知識と高い技術、それを身につけることは非常に大切なことです。しかしながら、身につけたものを、この世界の善のために使おうと努力できるためには、一貫してゆるぎない価値観と、それに裏づけられた豊かな人間性が必要なのは言うまでもありません。ノートルダム教育が大事にしていることはこのブログ上で折りにふれて話して参りましたが、中でも強調したいのは「自分は神によって愛されている大切な存在だ」ということでした。愛されて存在する被造物であるという自己認識、自己の存在を肯定する姿勢、他者を尊ぶ生き方、この価値観をノートルダムでの様々な学びの場面で体得してほしいのです。

クリスチャン・ファミリーの集いに参加させていただく度に、私は原点に戻り、私はここで何をしているのか、私はどこに向かっているのか、見失ってはならないものは何か、それらを思い起こします。その意味で、ここは私にとって、エネ・チャージできる場所なのです。心より感謝いたします。

このブログを読んでくださっている方で、一度、集まりに出てみようと思われれば、どうぞご一報ください。


2012年5月24日木曜日

You are Never Alone:あなたは決して一人ぼっちではないからね

5月24日


私が校長に就任した時、私が愛してやまない一人の恩師から、あるものをプレゼントされました。それは美しい色で模様が描かれている、掌(てのひら)サイズの平たい石でした。石の裏に、”You are never alone”と丁寧なカリグラフィーが施されています。その石の添え書きにはこう書かれていました。



Rock of Ages
Designed to carry with you as a reminder on joyous days, as well as on challenging days, that you are never alone
 God’s peace

「喜びの日々にも、乗り越えなければならない苦難の日々にも、あなたが決して一人ぼっちではないということを思い出すように、この石は特別に彩られています。いつも携えてください、神様の平和があなたと共にありますように」


この石をプレゼントして下さった私の恩師は、どんなことがあってもあなたは孤独ではない、神様が共にいてくださることを忘れないでください、と言われました。前途に不安もあった私は、どれほど励まされたことでしょう。

「石にはね、積み重ねられた時間の営みがそのままそこに現れている、そんなふうに思うのよ。神様の特別な時間の流れを感じるの」と彼女はその石を手にとってそう言われました。確かに、道端の石は、実はこの地上における神のみ業の片鱗を感じさせてくれる最も身近なものの一つと言えるかもしれません。この石のアーティストは、神様の被造物であるこの素材をこんなふうに使うことに気づかれている、深い心の持ち主だと思いました。

その石には、深みのある暖色で施された十字架が描かれ、それに重なるように大きな星が描かれています。そして、描かれた星の角に一つずつ金色のドットが施され、星の内側にも周りにも金色のドットが散りばめられています。よく見ると、そのドットは、細い線で結び合わされているのです。掌に納まるほどの石の上に、なんと繊細なのでしょう。

この金色で散りばめられているドットも、大きな星を内外取り囲むようにしてきらめいている小さな星のように、私には思えます。大きな星を背景にして、小さな星々が安らかに遊んでいる、そんな風景を思い起こします。そして、その星たちが細いラインで結ばれている。それはまるで、この世界中の被造物が、大きな愛のもとでつながり合っていることを思い出させてくれます。人間はもとより、生きとし生けるもの、すべての命たちは、宇宙を司る神のもとで結び合わさり、つながっている、そのことを思い出させてくれます。

280年ぶりに見ることが許された先日の壮大な天体ショーを歓声と共に見上げたあの日あの時に想ったこと、それは、宇宙の中で太陽や月、星々を配置されるのは神様、人々の出会いも別れも、生まれるも死ぬも、人にはコントロールできないすべてを司られるのは、神様。その根底にあるのは愛。人間は、この神秘の前に、なんと小さく無力な存在なのだろうということでした。でも、さらに思ったこと、それは、あの時に一緒に天を見上げた人たちは、なんというご縁で巡り合ったたち、一生会わなくても何の不思議もない人たちが、一緒にノートルダムという園に集い、一緒に同じものを見上げて、歓声をあげている。そう思うと、その場にいた人たちすべてを抱きしめたくなるぐらい、一人ひとりが愛しく、また大切に感じました。私にとって、被造物である一人ひとり、共に生かされていることを喜び合いたくなる瞬間だったのです。神様の思いにふれる瞬間だったと言いかえることができるかもしれません。今、石を眺めながら、あの日のことをゆっくりと思い起こしています。

一人ひとり、一つひとつの被造物を、愛され、慈しまれ、そしてこの愛に応えて育ってほしい、芽生えてほしい、茂ってほしい、伸びてほしい、咲いてほしい、実ってほしい。笑って、泣いて、怒って、許して、愛してほしい。そして、孤独な人、助けの必要な人の友になってほしい。その人をどこまでも大切にしてほしい。その友のために命をかけても構わないと思えるほどにその人を愛してほしい。宇宙が、その愛で満たされてほしい。この石を掌に握っていると、だんだん私の体温が石に伝わり、温もりを感じてくる。そうすれば、神様の、一人ひとりに向けられたパーソナルで熱い想いが伝わってくるようです。

私は、ノートルダムの学びの場にいる生徒たち一人ひとりに、この神さまのパーソナルな想いを伝えたい。一つひとつの学びの根源は、この想いを知ることにあるからです。授かる知恵は、この想いを深く知ることに結びついているからです。すべての学びは、愛につながっている。自分をだれかのために、何かのために、善のために、愛のために、恐れずに明け渡すことのできる人になるように、それが学びの究極の目的です。

「あなたは決して一人ぼっちではないからね」というこの石のメッセージは、私に与えられていると同時に、この石を握る私に、もっともっと愛深くあるように教えてくれます。


2012年5月21日月曜日

金環日食の朝に想う

5月21日


今日は特別な朝です。早朝からニコニコしながら坂道を上がってくる生徒たちを迎えます
「先生、楽しみ!」「突然雲が出てきたらどうしよう!」「きっと大丈夫。こんなに晴れてるもの」「先生、金色のリング、見れますか~?」「ホント、見られたら素敵ねえ」 
生徒たちとの早朝7時前の校庭での会話です。

日食を見たい人たちは今日、グラウンドに午前7時15分に集合です。理科の先生方が用意してくださった観察用メガネを片手に、半ば興奮気味で次々と生徒たちが到着します。

生徒たちが日食メガネを使用して空を仰いでいます。
グラウンド上空では、観察用メガネごしに、美しい三日月のように見える重なりが、時を追うごとにくっきりと影絵のように大きくなってきます。観察用メガネを、前もって家で購入して持参してきている人たちもいます。メガネの種類によって、見える三日月型の太陽の色が微妙に異なり、みんなで交換し合って様々なバリエーションを楽しみました。赤く見えたり、蛍光色に見えたり、真っ白にみえたり。



これ、わかりますか?
木漏れ日の影がすべて三日月になっている珍しい一枚。
ピンホール現象がこのように大自然の中で実現。
この京都の地で、太陽と月の最も顕著な重なりがリング状になると予想される午前7時30分までには、本校グラウンドに既に120名ぐらいの生徒たちと教職員が集まりました。「世紀の出来事やなあ!」「もう次は280年後なんやって!」「へ~、もう私たち全部いいひんってことや~」生徒たちが会話しています。確かに、次の金環日食は、2030年6月1日に北海道で見られるらしいですが、それは18年後のことです。でも、計算上、京都において今日のようなことが起こるのは、今から280年後、すなわち、西暦2292年ということです。つまり、ここに集っている人たちすべてのライフタイムでは、今この時、この場で、これが最初で最後ということは確実です。



理科の先生による撮影。
三脚なしで、よくここまで!感謝
そう思えば、今、ここに、集っている私たちは深いご縁があってここに呼び寄せられた―そう思いませんか?私にメガネを貸してくれたH先生も、私の右隣りで歓声を上げている高校生も、私の左隣りにいるA先生も、後ろで笑っている中学生たちも、みんなみんな、この日、この時、この場で、こうして一緒に太陽と月を眺めていることは、奇跡に近い「ご縁」の成せる業、別の言い方をすれば、神様しか生み出せない出会いと言えます。2012年5月21日、午前7時30分―この巡り合わせで神様がこのように配置された太陽と月と私たちの結びつきの神秘に、こうやって一緒に与ったことを、いつまでも心に刻んでおきたいと思います。

私たちはどんな時にも、一瞬ごとに、私たちにはコントロールできない神様の業に与っています。それはすべて、神様の深い愛に裏打ちされています。出会いや別れや、すべての出来事や思いの連鎖は、ある種の秩序という人もいるでしょう。また、偶然と呼ぶ人もいるでしょう。でも、私は、神様の愛の計らいと言い切りたい。今日皆で味わったダイナミックな天体ショーは、何ごともないような日常をも、実は神秘の連続なのだということを教えてくれました。


そう言えば、校長室の棚に、美しい石が一つ置いてあります。掌サイズの小さな石ですが、次回のブログは、これについて是非お話したいです。今日の出来事と深く結び合わせて、分かち合いたいことがあるからです。お楽しみに。


2012年5月18日金曜日

愛するということ-マタイス師が残したもの

5月17日


お久しぶりです。ちょっと長らくお待たせしてしまいました。申し訳ありません。この1週間も非常に盛りだくさんの校内での様々な取り組みや対外行事があり、飛ぶように時間が過ぎていく日々でしたが、私には生涯忘れることができないことが起こり、そのことを深く味わった一週間でもありました。

5月11日、私が敬愛してやまない一人のイエズス会の神父様が天に召されました。キリスト教では、「死」は決して忌み嫌うものではありません。むしろ、神様のみもとに近づき、そこで体の苦しみや限界、内外束縛していたすべてのものから解放され、魂が本当の安息を享受する時と捉えます。そしてその安息は、終わりのないもの、すなわち永遠につづく安らぎなのです。ですから、すべての人にいつか与えられている「死にゆくこと」は、決して起こってはならない悲しいことではなく、この世での生のフィナーレであると同時に、神のみもとでの新たな命のプロローグなのです。

しかし、この世に残された者は、その人ともう二度と、この世で会うことができない、その別離が悲しくないはずがありません。私の信仰が、彼の永遠の安息を確信していたとしても、実際に、彼と過ごした日々、語り合った時間、飲んだり食べたり笑い合ったりしたひと時が宝物のように大切であればあるほど、その宝物をしっかりと胸に抱きながら、だれをもはばからずに泣きたくなるのです。そして私はひどく泣きました。

日々京都を離れることが許されない時間の連続でしたが、5月15日の通夜の儀に、東京都内四谷のイグナチオ教会に駆けつけることが許されました。午後7時半の式にギリギリ間に合う時間に列車にのり、京都に11時半過ぎに着く最終便で帰ってくるというスケジュールを話していた当日の朝、夫が言いました。「本当にそんなタイト・スケジュールで行くの?マタイス神父さんはそこにはもういないんだよ。」そして、私は答えました。「神父様がいないことはわかってる。もう上智のキャンパスにもどこにもおられないんだということはよくわかってる。でも自分のために行かなければならないの。」神父様がここに生きておられた証しを、彼の命のフィナーレを、彼を愛してやまない人々が一緒に集って感じることができる最後の日なのだとしたら、私は万難を排して行くことしか考えられませんでした。夫は、「その人がどのように人を愛する人だったのかということは、結局その人が亡くなる時にわかるんだね。残された人々によってわかるんだね」と感慨深げに言いました。その通りだと思います。彼は「愛する人」でした。豊かに、時には愚かすぎるほどに。彼ほど深く、細やかに、一人ひとりときっちりとかかわりをもち、それを長く大切にでき、そしてどんどん広がり、人と人の輪を愛でつなげ、豊かな分かち合いを至るところで持っていた人はめずらしい。一人ひとり、あまりにも細やかに大切にされたものだから、おもしろいことに、彼に愛された人のその多くは、結局自分が一番愛されていると思っていたことでしょう。私もそのうちの一人です。

あの晩、イグナチオ教会に入ったとたん、私は彼の棺の前に駆け寄りました。その時に棺によりすがって泣いていた人たちは皆、私のように愛された者たちでした。私のように愛された人は私だけでは当然なかったのだと知ることは、彼の豊かな愛深さをますます敬愛に満ちたものにしてくれました。そして、私もそのように人を愛する人にならなければいけない、マタイス師の弟子ならば、そうありたいと心から思いました。きっとあの日そこに集まった人々の多くが、そのように思ったに違いありません。最後の時に、人にそのように思わせる彼は、生涯優れた宣教師だったと言えます。

生前、彼はよくこう言いました。人の幸せを願わずして、自らの幸福はないんだよと。他者を幸福にしてこそ、自らが幸福になれるんだ。 彼の死に際して、締めくくりに彼が与えたメッセージは、一人一人をしっかり愛することが、本当に生きることなのだということでした。彼と歩き、彼と語り、彼と笑い、彼と食事したすべての時に、私を含めた多くの方々が得た安心感、信頼、くつろぎ、解放感、そして何よりも楽しかったあの一瞬一瞬がきらめいているからです。彼が示した弱者の思い、貧しい人たちとの連帯の生き方、これらにゆるぎない価値のきらめきを見たからです。このきらめきこそは、聖書の中のイエス、弟子たちがイエスと共に過ごした時間を彷彿とさせます。弟子たちの、師イエスと共に生きた時間は、彼らの一人ひとりの後々の生涯を、確実に決定づけたのですから。

この写真は、神父様との最後の写真になりました。今年1月、ノートルダムの仲間たちと四谷にて。皆と食事を共にすることが大好きだったから、彼らしい一枚です。最後のお仕事となった本学院の理事というお務めも、体力をリスクにかけながら誠実に尽くしてくださいました。心より感謝いたします。



マタイス・アンセルモ師の永遠の安息を祈ります。私にとって、最高のリーダー、慈しみ溢れる宣教師、透明な愛に満ちた人、そのような存在に出会わせて下さった神様に心から感謝します。

神父様、天国で待っていてね、また会う日まで。

2012年5月10日木曜日

ノートルダムの「知恵」のコレクション


5月10日

知恵は輝かしく、朽ちることがない。
知恵を愛する人には進んで自分を現し、探す人には自分を示す。
求める人には自分の方から姿を見せる。
(旧約聖書「知恵の書」6章12〜13節)




今日は、4月16日付けのブログでほんの少し触れた、朝読書のためのブックレットについて、改めてご紹介してみたいと思います。今日は中学3年3クラスが図書室で朝のHRを行う日でした。今年からの新しい取り組みとして、今学校は、朝読書に生徒たちが選ぶ本の内容に着目しています。これは、10年続いている朝読書をもっとノートルダムらしくしようというと先生方全員の力の結集です。全教員が「あなたに勧めるこの一冊」を数冊ずつ推薦し、それぞれの表紙を含めたタイトルや著者等の情報を、美しくて見やすいブックレットの形にまとめ、編集し、刊行したものです。表紙を始め、内側のいたるところに登場する挿絵は、ノートルダムの生徒たちの手によるもの。すなわち、このブックレットは、現在ノートルダムに生きる人々の力の結集ということができます。


だれもが青春時代に読んでおいてほしいクラッシックなもの、あるいは、現代社会に大胆にメスを入れたもの、エッセーから童話、物語、理科や数学が面白くなるようなもの、英語で書かれたものまで、多彩な本の数々。大人も見て楽しい、ノートルダム・オリジナルなものが完成しました。全生徒、全教職員が一冊ずつ持っています。このブックレットに登場する本はすべて、2冊ずつ図書室には設置されていて、一冊は禁帯出、一冊は借りることができます。すなわち、いつでもコレクションを完成形でみることができるシステムになっています。今朝、このコーナーを観察してみると、多くはすでに禁帯出のみ、つまりだれかによって、借りられているということです。

少し手ごわい読み物に挑戦して、果敢に取り組んだ生徒には20冊、40冊、60冊読破を記念して表彰し、プレゼントが渡されます。挑戦者はどなたでしょう?健闘を祈ります。


2012年5月7日月曜日

神様と私のラブレター


5月7日



5月2日付けのガラスの天使とカードのコラボ写真は、気に入ってくださったでしょうか。校長室の窓から優しく薫る風を、あの写真から感じて下さったら嬉しいです。あの日も、そして今日も、真っ赤なハートを運ぶ天使のウインド・チャイムは、窓際で繊細で美しい音を奏でてくれています。

ゴールデンウィークの間に、お約束どおり、あの詩を訳してみました。
E. E Cummings は、この詩をどのような心情で、何を思い浮かべながら創作されたのでしょうか。それを思い巡らしています。

この詩は最近、”In Her Shoes” という米国映画にも登場しました。妹が姉の結婚式にこの詩を朗読します。間違いなく、とても親密な人と人の心の交流、大きな愛に満たされた魂の歓びが伝わってきます。

皆さんそれぞれに、このような強烈な愛のことばを捧げることのできるだれかがおられるとすれば、それはなんと素敵で素晴らしいことでしょう。しかしながら、この詩を捧げる相手など、私には到底いないと思ったとしても、実は、そう思うあなたご自身に向かって、この詩のこの言葉を毎日投げかけておられる方がいらっしゃいます。今日、そのことを皆さんにお知らせしたいと強く思いました。

その方のことを、私は「神」と呼びます。月や太陽、星を配置し、全宇宙を司り、そしてその中に生きる小さな一人ひとり、私個人という存在を慈しんで愛される。存在を根底から支え、抱き、何が起こってもそばから離れずにいてくださる。そして、いつも、この詩のことば、あるいはそれ以上のすべてを惜しげもなく与えて、与えて、私が知らなくても、気づかなくても、与え続けておられます。いつ頃からか、私はそのことに気づき始めました。神様からこのように愛されることを一度知れば、私も神様に対して、それに応えたいと心底から思う。魂が望み、理性が計算できないほどに、愛したい。私がそう愛したいと望むのは、神様が先に、このような愛を溢れるほど下さったからです。この詩は、神様からのラブレターという言い方もできるし、私からの神様へのラブレターという言い方もできます。

そう思うとCummingsは凄い詩人です。神の愛のほとばしりを人間の言葉で表現したのですから。この詩の「私」はむしろ神様を仰ぎ見る私そのものです。



私はあなたの心を大切に抱(いだ)く
私の心の中に 大切に抱(いだ)く


決して離れない
私がどこに行こうとも あなたも一緒
私が何をしたとしても想いは一つ 愛しい存在(ひと)よ


運命を恐れることはない
愛する存在(ひと)よ あなたが私の運命だから


世界などほしいとは思わない
美しいあなたは世界そのもの 真実そのもの
あなたこそは 太古より月が意味してきたすべてのもの
そして太陽が常に謳(うた)おうとするすべて


これこそは誰一人知る人のない奥深い神秘
根っこの中の根っこ
芽吹きの中の芽吹き
天空の極み
伸びやかに育つ命という名の木
それは魂の望み得る限りを超えて高く
理性の隠れ得る深みよりさらに深い


これこそはちりばめられた星の神秘


私はあなたの心を大切に抱(いだ)く
私の心の中に 大切に抱(いだ)く



I carry your heart with me
I carry it in my heart
I am never without it 
anywhere I go you go, my dear; and whatever is done
by only me is your doing, my darling
I fear no fate for you are my fate, my sweet
I want no world for beautiful you are my world, my true

and it's you are whatever a moon has always meant

and whatever a sun will always sing is you
here is the deepest secret nobody knows

here is the root of the root and the bud of the bud

and the sky of the sky of a tree called life; 
which grows higher than the soul can hope or mind can hide
and this is the wonder that's keeping the stars apart
I carry your heart 
I carry it in my heart









2012年5月2日水曜日

あなたはいつも私の心の中に

校長室の机上に、一枚の書きかけのカードがあります。一人の生徒のために書いている途中です。このカードはアメリカ人のシスターの手作りで、E.E. Cummings (Edward Estlin Cummings, 1894年 – 1962年、米国)の詩の最初の一行が引用されています。これは私が大好きな詩です。カードには、言葉と共に真っ赤な大小のハートが5つ、描かれています。

校長室の窓際に、一つのガラス細工が掛っています。今年3月に、中学2年生の長崎研修に同行した時に、大浦天主堂近くのガラス細工のお店に生徒たちと入ってみました。その時に買い求めたウインド・チャイム。ピンク色の天使が羽を広げて、両手に何かを持っています。真っ赤なハートです。

今日、真っ赤なハートでつながっているこのガラスの天使とカードを一緒にしたら、こんな素敵は写真になりました。心と心がつながっていることをよく示しています。だれかのハートをこのようにいつも大切に持ってくれている天使は、私に、大切なことを見失わないでと、絶えずメッセージを与えてくれています。書きかけのカードを書き終える時、この天使はきっと、私のハートを届けてくれるでしょう。私は生徒たちの心をいつも、私の心の中に抱きたいと思っています。私がどこにいようとも何をしていても、彼女たちの心と共にいられたら、と心から思っています。

以下はこの詩の全文です。
映画でも登場したらしいですので和訳は存在しているようですが、私なりに和訳してみようと思っています。GWの終わりまで、お待ちください。

I carry your heart with me
I carry it in my heart

I am never without it 
anywhere I go you go, my dear; and whatever is done
by only me is your doing, my darling
I fear no fate for you are my fate, my sweet
I want no world for beautiful you are my world, my true

and it's you are whatever a moon has always meant

and whatever a sun will always sing is you

here is the deepest secret nobody knows

here is the root of the root and the bud of the bud

and the sky of the sky of a tree called life; 
which grows higher than the soul can hope or mind can hide
and this is the wonder that's keeping the stars apart

I carry your heart 
I carry it in my heart