2015年4月8日水曜日

ノートルダム女学院 中学校高等学校 2015年度 入学式 学校長式辞

ノートルダム女学院 中学校高等学校 入学式

栗本嘉子学校長式辞

2015年4月8日 挙行


新入生の皆さん、ノートルダム女学院中学高等学校へのご入学、誠におめでとうございます。保護者の皆様、高いところからではありますが、本日はお嬢様のご入学、誠におめでとうございます。今後、様々な場面で、保護者様のご協力を頂戴することと思いますが、その節にはどうぞよろしくお願い申し上げます。

そして、今日特別にご臨席いただいているノートルダム教育修道女会のセントラル・パシフィック管区のシスターメリーアンオーエンズ管区長様、シスターダイアンペリー評議員様を始めとするご来賓の皆様、本日は、お忙しい中本校入学式にお越しになっていただき、誠にありがとうございます。心より感謝申し上げます。

さて、改めまして、新入生の皆さん、ノートルダム女学院へようこそ。皆さんは今、一つのこの場所で、同じ制服に身を包み、私の話に耳を傾けてくださっています。私は皆さんをこのようにお迎えできて、本当にうれしいです。皆さんは、晴れて本日から、ノートルダム女学院中学高等学校という家族、ファミリーの一員です。ファミリーは、偶然寄せ集められた人々の集団ではなく、意味をもって集まった、つながりのある共同体を意味します。このファミリーでは、一人ひとりが自分を信じ、自分以外の人々のことをお互い常に思いやり、愛し合いながら、一緒に成長していきます。ここでは、自分が一人勝手に生きているのではなく、多くの人との、ひいては地球上のあらゆるものとのつながりの中で生かされていることを学びます。そして、そのつながりの根底に、命の源である神様がおられ、私たちをこの上なく大切にしてくださり、愛してくださっていることを確信します。中学生1年生は今から6年後、高校1年生は今から3年後には、18歳のノートルダム・レディーに成長し、神と他者と自己に誠実さと愛深さをもって生き、自分に与えられたミッション、すなわち使命とは何かについて、世界をビジョンにしっかりと考え、それに向かって勇敢に歩み始める女性へと成長を遂げられていること、これが、ノートルダム教育の目標であり、校長としての私の願いです。

皆さん、私は今日まで桜の花が残ってくれていたらいいなあと願っていました。でも、地球の営みの中で、木々は成長を続け、新芽が吹き出し始めています。間もなく、新緑の季節がやってきます。皆さんはお感じになりませんでしたか。この何千、何万という桜の花々が一斉に咲き始めた時、いったいどこにどのようにして、木々は、これらの花々の開花の準備をしていたのだろう。私たちが寒さに震え、木の様子をゆっくりと見上げることもなく足早に通り過ぎていったあの冬の日々に、木々の内側では、着実に花の命を育んでいたのです。3月になり、ふっくらと枝の先端が脹らみ始めると、私たちは気づきます。ああ、桜の季節がやってくる。自然界は、静かに、無言で、着実に生への営みを休むことなく繰り広げる。私は、これを「内側の力」と呼びたいのです。内側からの力は、このように迸るような勢いのあるエネルギーを、静かに、無言のうちに、しかしながら非常にダイナミックに放ちます。花々は、優しく美しく、私たちを元気づけ勇気づけ、慰めもしてくれます。そして、さらには自らを果実に変容させる力も秘めています。決して押しつけがましくなく、謙虚に一筋の気持ちで咲いている。「花はなぜ美しいか。一筋の気持ちで咲いているからだ」という詩を残したのは、私の好きな八木重吉でした。

花や木が内側の力を秘めているものの例えだとすれば、戦争や暴力、武器や軍隊は、「外側からの力」です。規則が強い力をもつこともあり、経済格差が否応なしに社会的弱者を作り出すこともあるでしょう。この内側の力と外側の力のことを、私に気づかせてくれたのは、サティシュ・クマールというインド生まれのイギリスの哲学者でした。彼は、自分の内側にはたらく力をパワー、他者への強制力となる外側の力をフォースと呼んで区別しました。しばしば外側の力は強く、怖く、弱い者を作り出す。自分の内側からの力は、可能性を引き出し、命を育みつなげ、豊かさをつくる。私は、彼がこう語るのを読んだとき、私の信じるイエス・キリストは、このような内側の力を漲るようにもつ存在だったのだと思いました。彼には、優しいパワーがあふれていた。そして信じる人の内側の力を最大に引き出し、治らない病を癒し、見えない目を治し、弱く貧しい人々に、生きる希望と勇気を与えました。イエスに触れた人々は、体験したことのない大きな愛を知り、自分に内側の力があることを信じることができたのだと思います。

私がめざしたいノートルダム教育は、神様の愛に導かれて、皆さんの内側の力を引き出すものです。引き出し、創り出し、より豊かになっていくことを助けます。一つ、大事なことは、皆さんに信じてほしいということです。皆さんご自身の一人一人の内側に、すごい力が宿っているということを、信じてほしいということなのです。その力が可能性です。その力が、厳しい冬を乗り越えて、色とりどりの花々を開かせる。見るものを慰め、癒し、勇気を与える花々を咲かせる。やがては、自分を変容させ、果実を実らせる。その果実は、弱い立場に立たされている人々の助けとなり、慰めとなり、時には栄養になるでしょう。ノートルダム教育は、あなたにそのような内側の力をもった人になってほしいと願っています。

今日から、このファミリーの一員となられた皆さんは、ここで、よい出会いをいっぱい作り、たくさん学び、いろいろな豊かな体験をして、どうか、素晴らしい花を咲かせる準備をはじめてください。神様は必ずそれを助けてくださいます。一緒に信じて歩んでまいりましょう。

神様の祝福が皆さんの上に豊かにありますように祈ります。

2015年3月20日金曜日

ノートルダム女学院中学校 2014年度卒業式 式辞

ノートルダム女学院中学校 卒業式 式辞

2015年3月20日 

学校長 栗本嘉子


卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。
保護者の皆様、高いところからではありますが、本日はお嬢様の中学ご卒業、誠におめでとうございます。また、溝部名誉司教様を始めとするご来賓の皆様、本日はご多用の中、本校中学校卒業式にご参列いただき、誠にありがとうございます。

本日、皆さんは、3年間のここ女学院中学でのノートルダム教育を終えられました。今日はノートルダム教育があなたに伝えたい最も大切なことの一つを、この節目の時に共有しておきたいと思いました。

2012年4月、私が皆さんを初めてこの場にお迎えした入学式、私は壇上からこのように申し述べました。すなわち、「私たちは、単に偶然に集まっているのではない。ご縁があって、このように一人ひとりが呼ばれ、道のりを経て、ここに姉妹として集まったのです」、このようにお話ししたことを憶えています。それから3年の月日がたち、皆さんはすっかりノートルダム・ファミリーの一員として、お互いの名前を何度も呼び合い、微笑み合い、時には議論し合いながら、支え合い協力しあって、この共同体を創ってきました。そうです。皆さんは、この共同体の一員として、かけがえのない、大切な存在なのです。神様は、皆さん一人ひとりを名前で呼ばれ、憶えられている。失ったら探し出すまであきらめられません。そのことがこの学校でも実現しています。

そして、皆さんは、一人ひとりを大切に慈しみ愛してくださっている神から、大きな素晴らしい可能性を与えられている、その可能性は、いつか開花することを待っている、しかも誰かの喜びや幸せのために使われるため、開花することを待っている、そのことを信じてほしいということです。そしてご自身の可能性は、他者と連帯することで、より一層にその輝きを増し、神様に祝福されます。そのことを強く信じてほしいということです。

皆さんは、これまでの学校生活の中で、他者、すなわち、お友達と関わり合い、つながり合うことで成し遂げたさまざまな場面を思い出してください。そのことが本当だったとおわかりになるはずです。文化祭、体育祭、また、グループ・ワークで一生懸命協力し、一つの作品を仕上げ、そしてりっぱにそれらを社会に発信しました。自分のもてるそれぞれの力を結集した時、想像を超える輝きとなってそれを解き放つことができたことを忘れないでおきましょう。

人間は確かに、一人では決して強くはなく、むしろ、弱くてもろい存在です。時には、完全に無力であるかのように見えることもあります。日本中が大きな無力感、哀しみ、そして苦しみに覆われた東日本大震災から今年で4年が経過しました。今でも尚、復興は途上であり、癒えることのない悲しみに向き合っている人々が多くおられることを、私たちは知っています。猛威を奮う大自然の前に、私たちは確かにあの時、無力であり、多くの命の犠牲の前に、ただ頭を垂れることしかできなかった。そのことは事実であり、人間の力の限界を見せつけられたかのようでした。しかしながら同時に、報道は時を追って私たちに知らせました。あの時、あの瞬間に、一人の人が示した勇気ある行動、一人の人がとった生きるための選択、寄り添って励まし合い作り出した温かさ、泣く人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜びながら、大き過ぎる試練の中で、それを乗り越えようと連帯し始め、目を見張るような力強さを示しました。

一人の高校生のストーリーを分かち合います。彼女はこの4周年の追悼式で、宮城県代表として追悼文を発表した方です。当時15歳だった彼女は、瓦礫に埋もれて動けない母親をどうしても助けられず、自分は見捨てて生き延びたのだと自責しながら、震災後、深く悩み苦しんだ人の一人でした。自分を責め、哀しみの癒えない彼女に、実に多くの方々が共感し励まし、国を超えてまでの対話を果たし、徐々に自分を受け入れられるようになり、そしてこのことで失ったものの大きさと同じぐらいの素晴らしいものを、自分はこれから得ていきたい、そして同じように苦しんでいる人々に自分の気づきを分かち合いたい、このようにお話しされていたのを聞き、私は人間とはなんと素晴らしい力をもっているのだろうと感動いたしました。苦しみをばねにして、一人きりではなく人々の連帯により、自分の存在を取り戻し、高く大きく成長できるようにどのような状況にあっても招かれているのだと感じました。

確かに私たちは、あの日以来、もろさや弱さという私たち人間の限界と共に、神の似姿として私たちに与えられている崇高さ、真実さ、気高さ、美しさ、強さ、優しさ、素晴らしいものを生みだしていく創造力も同時に与えられている。そしてそのこと故に、人間は連帯し合って決してあきらめず、希望を持って、試練を乗り越える勇気と力を頂いているのです。それは、神様が常に、あの時にも、私たちと共におられて、哀しむ私たちを慰めようとされ、一人ぼっちになってしまった人を探し出そうとされ、泣く人のそばでご一緒に泣いてくださっていたからだということを、私は強く信じています。

今日で、ノートルダム女学院中学校での三年間を終え、新たなステージにさしかかろうとする皆さん、皆さんのこれからの青春の時間は、煌めく宝石のような時間です。それは意外と短く、でも確かな土台となって、今後の皆さんの人生を支えるものです。どうか、今のこのかけがえのない十代の青春の時間を、心を尽くして魂を尽くして、神と他者と自己に誠をもって生き抜いてください。心から対話し、心から共感し、つながり合って共に生きる。すべてが失われても、最後に残るものは、そうやって培った心と心のつながりであり、それが神が最もお望みのことであるということを胸に刻んで、次の扉を開けてください。

神の祝福が皆様の上に豊かにありますように、お祈りいたしております。

2015年3月2日月曜日

ノートルダム女学院高等学校 2014年度卒業式 式辞

ノートルダム女学院高等学校
2014年度卒業式 式辞
学校長 栗本嘉子


卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。また、保護者の皆様、高いところではございますが、お嬢様のご卒業、誠におめでとうございます。六年間、三年間、ノートルダムの心に共感し、ご同伴頂き、誠にありがとうございました。パウロ大塚喜直司教様、シスターモーリン和田理事長様を始めとするご来賓の皆様、本日は、ご多用の中ご臨席賜り、心より感謝申し上げます。

さて、皆さんは第60期卒業生となられます。ノートルダムでの最初の卒業式から数えて今年が第60回になります。卒業生は1万人を優に超えました。皆さんは明日から、それぞれの社会の場、共同体の中で、ノートルダムの精神を生きておられる先輩方の仲間入りをされます。 18歳になられ、本日巣立った後は、神様によって置かれたそれぞれの場所で、ノートルダムの精神を豊かに、また創造的に生きてほしい。それが、私の最大の願いです。

ノートルダムの精神とは何だったのか。今日、巣立つ日に、今一度それを振り返り、皆で共有しておきたいと思います。いろいろな機会に、私はいろいろな表現で皆さんにお伝えしてまいりましたが、最後になる今日、これを校長からの「二つの願い」という形で、皆さんにお届けしたいと思います。

まず一つめの願いです。皆さんは、神からお一人おひとりに与えられた豊かで無限の可能性を強く信じてほしいということです。神の似姿に作られている私たち人間は、まず神から特別に愛され、慈しまれて命を与えられました。神から「生きよ」と言われ、私たちが命を受けた時、同時に一人ひとり個別に、その使命をも与えられました。ノートルダム女学院での三年間、六年間の教育は、その使命とは何かを探し求める旅路でした。あなたの素晴らしさが何であり、あなたはどのように人々や地球環境と関わり、どのような人間になっていくのか、その可能性を模索する旅路でありました。


私たちは、この地球共同体の一員として、お互いに支え合って生きています。聖書では、「一つのからだ」という言葉で、このことをわかりやすく私たちに教えます。「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶ」と書かれている箇所を、コリント書に見つけることができます。私たちは、自分の可能性を信じて、その開花を目指しながら一生懸命生きようとする時、神に属する者として、一つのからだの一部になり、その使命を見出すのです。その時、自分に与えられた使命は、自分の利益のためではなく、他者の幸福のためにあるということ、そのために不可欠なのは、対話の心と共感の感性であるということを、ノートルダムではあらゆる機会をとおして、皆さんに伝えてきました。どうか、これからも、無限の愛を注がれる神から頂かれたご自身の可能性の開花を信じ、世界でたった一つしかないご自身の賜物を見つけ、それを使って、他者の幸福のために生き抜いてください。

そして二つめの願いです。どうか、ノートルダムで学ばれた皆さんは、自ら行動し、神様の平和のつくり手になってください。「平和を求める祈り」を、毎日ともに祈ってきた皆さんは、「平和」の意味が、単に戦争の対義語としてではなく、私たち個人の選択から成るものであることをよくご存じです。その平和は、他者や世界に開かれたものであり、創造的に勇気をもって正しい方向を選択し、行動することであるということ、必要とされている人、必要とされている場所に自らを差し出すために、「出向いていく」ための心の平和であるということを、皆さんはノートルダム教育の中でしっかりと学ばれました。

教皇フランシスコは、そのご著書「使徒的勧告 福音の喜び」の中で次のように述べておられます。

「『出向いて行く』教会とは、門の開かれた教会です。隅に追いやられている人のもとへと出向いて行くことは、やみくもに世界を駆けずり回ることではありません。足をとめる、他者に目を注ぎ、耳を傾けるために心配事を脇に置く、道端に倒れたままにされた人に寄り添うために急用を断念する。(中略)私は出て行ったことで(中略)傷を負い、汚れた教会のほうが好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです」


昨年の待降節の雨の午後、校門前のマリア像のそばに皆で建てた白い四角柱、シャローム・ピース・ポール。そこには、赤い文字で、“Peace in our homes and communities” と書かれています。「私たちの家庭に、共同体に、平和があるように」という意味を込めて。シャロームという名が表すとおり、私たち一人ひとりが、神、他者、そして生きとし生けるすべてのものとの関係を、しっかりと神様が望まれるとおりに保っていること、そのために行動する、それを、自分の近くから始め、やがては地球共同体の平和に貢献するという決意。その象徴でした。学校の登下校時、このピースポールの前を通過するたびに、自分の心を調べ、平和のないところにそれを自ら作り出すことができる人になる約束を皆さんと共有しました。
私たちの生きる現代社会は、簡単に解決することができない難しい問題が山積しています。グローバル化する世界にあって、テロの恐怖、資源の枯渇とその奪い合い、富の不平等、貧富やそれに伴う教育機会の格差、地球環境の悪化など、一言でいえば、私たち被造物の命の存続に対する脅威に押しつぶされそうです。一人の力ではどうしようもないように見える、圧倒的な負のスパイラルです。これに、いったいどのように、立ち向かっていけばよいのでしょう。

人間がおごり高ぶることをやめ、自分たちの限界を受け入れ、憎しみや復讐の気持ちを和らげ、愛と許しの心でお互いを尊び、対話を深め、ともに命の方向に向かうことは、この負のスパイラルに対して、平和のスパイラルを生み出すことになります。そして、今こそ、私たち女性がまず、神がくださった命の尊さ、育む喜び、命がつながっていくことへの希望を確信し、その喜びと希望を生きながら、それを次の世代に伝えていく役割を担っているように、私には思えてなりません。

卒業生の皆さん、このように私がこの壇上から皆さんに向かってお話しすることも、もうこれが最後になります。申し述べた校長の二つの願いをどうか心に刻んで、世界の海原に向かって勇気をもって漕ぎ出してください。神様は必ず、あなた方と共におられ、どのような困難があっても、それを乗り越える強さをあなたがたに与えられるでしょう。しばらくは、母校を忘れてしまうほどに、一人ひとりが置かれた場所でご自身の賜物を見出しながら精一杯働き、神の平和の作り手として生きてください。

神様が皆さんの前途を豊かに祝福してくださいますように祈ります。





2014年10月11日土曜日

ノートルダム女学院中学高等学校 創立62周年記念式典 式辞


 

私たちは今ここに、ノートルダム女学院中学高等学校創立62周年を共にお祝いするために集まっております。
本日は、このように多くのシスター方、またご来賓の皆様に見守られながら、この喜びの時に共に与ることができますことを、神様と皆様に心より感謝申し上げます。いつもノートルダム教育の実現のために、心からの祈りとお導きを頂き、誠にありがとうございます。
保護者の皆様、本日はようこそお越しくださいました。私どもを信頼して、大切なお嬢様をお委ねになって頂いた保護者様の、その信頼に支えられて、私どももまた今新たな一歩を踏み出そうとしています。今日、ノートルダムの大切な心を皆様と分かち合うことができましたら、これ以上の喜びはありません。
生徒の皆さん、創立62周年の記念を、皆様とここでこのようにお祝いすることができて、私は本当に嬉しく思っています。皆さんは、63年めを生きる本校の、最先端を担う人々です。

さて、創立記念日は、私たちの足元を見つめ直す日、どのような土の上に私たちが立ち、その土はどのように耕されて今日あるのか、そのことを思い起こし、そして、その土の上でこれまで、様々な偉大な神様の業が行われたことにたいして、心を躍らせ喜びあう時でもあります。そして、さらに、創立記念日は、新たに、私たちがどの方向に向かって歩み出せばよいのかを確認し、決心する日でもあります。
今日のこの日に、私は生徒の皆さんに是非伝えたいメッセージがあります。これをよく聞いて、理解するだけではなく、このように生きたいと決意ができ、そして、そのように生きる努力をするあなた方は、必ず、今日のこの創立記念日が、あらたな出発となるはずです。この私の式辞と、後に続くミサとシンポジウムは、その意味で、皆さんに、決意と感謝を促し、ノートルダム生としての行動指針を与えるでしょう。与えられるメッセージを心の耳で聴き、受け取ってください。今日を貫く大きなテーマがあります。「来て、見なさい」。これは、ヨハネによる福音書一章からの引用です。
今日、あなた方は、イエスと出会います。あなたは、イエス様がとても偉大、とても素晴らしい、畏れ多い、私などが近づけるような、そんなお方ではないと思いこんでいる。でも、同時に、イエス様に少しでも近づいてみたい、あの優しい、温かい、深い眼差しで見つめられたい。私の手に、肩に、触れて頂きたい。何か、関わりをもちたい、近づきたい。だから、弟子たちのようにあなたはイエスに問いかけてみる。まずはイエス様が住んでおられる場所を。イエス様が食べたり、休まれたりする場所を、そこから出かけて人々の中に入っていかれる、そのベースの場所を。「主よ、どこにお泊まりですか?」と。
イエスはこちらをじっとみて、そしてお応えになりました。「来て、見なさい。」
学校でお昼休みの終わりに毎日かかる曲は、この場面が曲になったものですね。With Christ というタイトルです。今日のミサの最後にもご一緒に歌えることが嬉しいです。歌詞はこうです。「来てみなさい、私が生きるところに、来て交われば、私もそこにいる。Come and see, 恐れないで、光もとめ、手を伸ばして、Go with me、歩き出そう。愛することを始めるために。」
この歌は、皆さんにこう歩んでいってほしいという私の願いを、実に分かりやすく伝えています。
「来て見なさい。」これは素晴らしいinvitation です。これに勝る出会いへの誘いはなく、体験もありません。こんなに情報が溢れる世の中にあって、実際に自分の足で行くという行為は特別です。イエス様からみれば、来なさい、ということですが、あなた方からみれば「行ってみる」、「見てみる」そして、「交わってみる」。そこには恐れがあってはならない、光は「希望」です。希望を求めて、みずからの手を伸ばす。希望のないところ、いわば絶望の中にあっても、手を伸ばして希望を得る。皆さん一人ひとりが、神様の希望を映し出す人になっていく。それは、「平和の祈り」で皆さんが毎日唱えている「闇に光を、絶望のあるところに希望をもたらす者にしてください」という祈りそのものです。そして、Go with me、イエスと共に行こうと、イエス様が誘ってくださっている。行って何をするでしょう?愛することを始めるのです。
「愛することを始める。」これこそが、ノートルダム教育そのものです。それが、62年前に本校ができた理由であり、ミッションそのものであり、私たちのゴールでもありました。「愛することを始める。」181年前、ドイツで最初のノートルダムを創設された我々の母、マザーテレジアゲルハルディンガーも、「愛すること」を始めようと、決意された方です。私は常にあなた方に言っています。愛することは、易しい、楽しい、おもしろい、そればかりではない、愛することは、時には辛い、難しい、面倒くさいこと。でも、ノートルダムは皆さんに教えます。どんな困難があろうとも、愛することを始め、愛することを貫き通す。愛することは、決意です。コミットメントと言います。イエスは言われました。「友のために命を捨てる、これよりも大きな愛はない。」愛することは、そこまでに至るとイエスは言われています。好き嫌いではなく、決意なのです。
では、愛すべき「友」とはだれか?どこにいるのか?ここからが、クライマックスです。皆さんは、多くの人々との関わりの中で生きている。皆さんの保護者、皆さんの兄弟姉妹、親戚の方々、こういった血縁関係以外にも、皆さんは実に多くの人々に支えられ、様々なことを分かち合いながら、お互いを大切にし合いながら、今を生きているということができます。今後、この学校を卒業したら、益々、出会いは多様化することでしょう。それらの出会いを一つひとつ大切にしてください。それは皆さんの糧となり、宝となるものです。そこで、皆さんに一つ、新しい扉をお示ししましょう。知ってほしいことなのです。

私たちはかつてのどんな時代にもあり得なかったことを毎日体験しています。私たち自身のこと、他者のこと、この社会のこと、この地球のこと、それらについて、以前よりももっと正確に幅広く知ることが可能になっています。私たちは簡単にすばやく、私たちのこの地球上どこでも行くことができる。また、地球の裏側に住む友人にも、即座にメッセージを送り合える。溢れるように提供されるあらゆるジャンルの情報は、上手く取捨選択するすべを知れば、私たちの手の中に、正確に、素早く、充分という量を携えてやってきてくれる時代です。世界がフラットになり、国境線、通貨、言語、食文化、生活習慣など、その国を国として成り立たせるためのすべての境界線が溶け始めています。世界が小さく縮んでしまったかのような、私たちが万能の翼をもらって、すべてにアクセスできるような期待をもつ時代です。時は、グローバル時代なのです。

しかし、一見素晴らしい、めざましい、世界が一つになったように見えるかもしれないこの地球で、私たちは自分たちで落とし穴を作ってしまっている。その中に多くの人々がすでに、落ち込んでしまっていて、這い上がることができないでいる落とし穴です。すなわち、世界市場では、深刻な格差が拡がっています。アメリカ、ヨーロッパ、日本は、エチオピアやハイチ、ネパールよりも100倍以上豊かだと言われている。先進国は、過去100年で発展してきましたが、途上国はどうでしょう。インドや中国が急速に発展している、でもその行動を取れない国々があります。グローバル化のひずみの陰で、周辺に押しやられている人々について、私たちはどう考えればいいのでしょう。なぜ、このような格差が拡大する一方なのでしょう。弱い者ではなく、強い者が心地よく便利に生活する地球社会。みんな強い者になりたがって、弱い者が置いてきぼりになってしまっている。どういった価値観が、どのような経済構造が、それを生み出すのでしょう。それをまず学び、考えることが、愛することを始めるための第一歩かもしれません。

日本国内を見てみましょう。皆さんと同じ年くらいの若い世代であっても、その中の意外に多くの人々が、皆さんの暮らしと同じような豊かな暮らしをすることができていません。日本社会は豊かですが、この社会がさらに豊かになり、一般的な水準が上がっていけばいくほど、その水準から落ちこぼれてしまっている子どもたちが、実に6人に1人の割合でいるということが、厚労省の調査でわかっています。まさに、自分たちで自分たち自身のことを守ることができないほど貧しかったり、非力であったりする。私たちは、それについて、どう考えるべきでしょう。ここでも、弱い者ではなく、強い者中心の考え方で、ますます便利に、益々豊かになっていく現実があります。

ノートルダム教育を受ける私たちが、愛することを始めるということは、実に、このようなことに向き合っていく、自分たちに関わることとして捉えることができる、という共感の心を自分の中に育てて行くことであると思います。弱い人々を中心にして、彼らを忘れない、彼らの幸せのために、自分ができることを見つけ、行動する。そしてそれを続ける。

今日は、ミサの後で、私たちの第3部があります。これは、一人の女性の生き方が軸になっています。辻村直さんという東ティモールの国際公務員の方の生き方。彼女は、もう17年以上も東ティモールで、自分のすべてを現地の人々の生活のために捧げつくしておられる方です。今日、登壇してくれる3人の皆さんの先輩たちは、その彼女に影響を受け、自分たちも現場に行ってみようと決意できた方々です。その彼女にだれかが尋ねました。辻村さん、一体いつまで、あなたは東ティモールで働き続けるのですか?そしたら、彼女はこう答えました。私の仕事が終わりになる時は、ここでの私の存在がゼロになる時ですと。必要とされなくなる程彼らが充分満たされる時、私の存在はゼロになる。そうすれば、私の仕事は終わりです。
彼女のこのことばは、これからの私たちの行動指針になる言葉だと思いますから、私の話の最後をこの言葉で締めくくりたいと思います。皆さんは、このグローバル社会にあって、自分の使命を生きて行かれる上で、自分の存在をゼロにするまで、その使命を生きて下さい。それが、本当の意味で「愛する」ことだと思います。そして皆さんお一人おひとりが、そのように愛する人になってくださること、それが校長としての私の願いです。

これをもちまして、式辞といたします。

2014年2月28日金曜日

2013年度卒業式 式辞

卒業生の皆さん、本日はおめでとうございます。保護者の皆様、高いところからではありますが、お嬢様のご卒業、誠におめでとうございます。本日のお喜びの日を、ここでこのように共にできることを、心より幸せに思っております。パウロ大塚司教様、シスターモーリン和田理事長様を始めとするご来賓の皆様、本日をこのように共にしていただくことは、私たちの大きな喜びでございます。誠にありがとうございます。

 卒業生の皆さん、このように私がこの壇上から皆さんに向かってお話しすることも、もう、これが最後になります。クラスメートと肩を並べてこのように立ち、同じ空気を吸いながら、この場に共に存在する、この日この時はもう二度と巡り来ない。私たちの生きる命は、その一回性に満ちたものです。普段はそのことに思いを馳せることがなかなかできない私たちですが、でも皆さんは、今日の時が近づくにつれ、そのことを意識し始めました。このホームルームで、この廊下で、この場所で、この友たちと当たり前のようにして時を過ごし、他愛のないことで笑い合える時間がもう、確実に終わりに近づいている、そう思うにつれて、その時間が愛おしく、その友を愛おしく、自分自身を愛おしく感じる気持ちが募ったことでしょう。一回限りで過ぎ去るすべての一瞬、その有限の時間と空間の中にあって、あなた方は、このノートルダムの学び舎で、神様があなた方一人ひとりに下さったかけがえのない真理に気づきました。その真理とは、この世のものがすべて過ぎ去っていく中で、決して過ぎ去らない、終わらない、朽ち果てないものがあるという気づきです。皆さんが今日、未来への扉を開かれる前に、最後に、そのことを振り返りましょう。いったいノートルダムは皆さんに何を伝えてきたのか。
 ノートルダム女学院はあなたに、この世界であなたは決して一人ではなく、多くの人々の愛の中でつながり合って生きているのだということを、あらゆる機会を通して知らせてきました。あなたをこよなく愛し、喜びとご苦労の中で大切にお育てになった保護者の方々、何気ない日常の中で、楽しかったことや辛かったことを共にしたかけがえのない友人たち、そして、どんな時もあなたを励まし勇気づけることを忘れなかった先生方職員の方々、それらの出会いの中で、ノートルダムは、あなたに伝えました。これらの温かく優しい眼ざし、あなたのつぶやきを聴こうとする耳、あなたが大事なのだと叫ぶ声、一緒に走ろうとつなぐ手、一緒に休むために下ろす腰、まるごとあなたを抱きしめる腕、あなたが弱い時に背負って歩む脚、それらはすべて、愛そのものである神からのものであったことを。神が私たちを先に愛され、神が私たちに生きてほしいと願いながら、命と愛、知恵と勇気を与え、素晴らしい出会いの数々を育まれ、私たちは一人残らず、その神のもとで、愛する人へと成長していくように招かれたのだということ、そのことを、知ってほしいと願い、伝え続けてきました。
 さらにノートルダムは、あなたに、世界を見るビジョンを持ち、ものごとを選択する基準を育て、その時その場で最もよいものを自分で選び取って前に進むこと、それができることが真の自由なのだということを教えました。そしてその自由を、自分の利益のためではなく、神と他者の幸いのために使うこと以外に、真の幸福はあり得ないということも、あなたに告げ知らせました。日々の学びは、真の幸福を得ることをゴールとする旅路、神から与えられた一人一人異なる賜物を見出す旅路であり、見つけた賜物をフル活用しながら、この地上で与えられた命をどうぞ精一杯生きてほしいという願いを、私はあなたに抱き続けました。
 私の大好きな文章を、今日皆さんに分かち合います。フランス人のイエズス会司祭で、古生物学者でもあったテイヤール・ド・シャルダンの考え方を、わかりやすく表している文章として、私は今日、あなた方と共有することが大変ふさわしいと感じました。神と宇宙と人類についての彼の考え方に、私は大学時代に出会い、深く感動しました。神学と科学との和解を可能にした人の中で、最も影響力のあった者とも言われました。

「私たちは全人類の初めから、世の終わりまで生きとし生けるものが関わる一つの織物を裏側から織っているようなものだ。裏から織っているので、自分に与えられた個所がどんな模様かははっきりとはわからない。けれども、全人類の終わりが来た時に、全人類が関わった一つの織物は、私たちに表を現わして掲げられる。そのときには、自分の織った個所が明らかにわかる。全人類が織り成す織物が見事な芸術品になるかどうかは、あなたにかかっている。あなたが‘自分なんて’と言いながら自分の受け持った個所をいいかげんに織ると、織物の質が変わっていく。あなたが自分の織物を裏側からみているとき、自分の使命が何だかわからないかもしれない。しかし、今ここで自分を大切にしながら与えられた能力を生かして、他の人とのよい関わりに焦点を合わせ、調和と一致をめざして働く時、それは見事な質の織物となる」


 最後に、私は皆さんに願いたいと思います。あなたは神の愛の中で生まれ、あなたの青春の日々は神の愛の中に豊かにありました。これからは、あなたは、愛する人としてどうか、あなたの賜物を生かしながら、出会うすべての人々にとって、光であり、希望となってください。この世界には、孤独な人、苦しんでいる人、弱い立場に押しやられて泣いている人々がたくさんいます。あなたのすぐ近くにも、そして遠く海の向こうにも、彼らは、あなたが来るのを待っています。まなざしをしっかり神に向けて進む時、神はそれらの人々の存在を、あなたに知らせてくださることでしょう。どうか、それらの人々の隣人となり、彼らを愛し抜き、彼らにとって光となり、希望となってください。ノートルダムで教育を受けたあなたには、それがおできになると私は信頼を持っています。
さあ、私が話すべきことはすべて話しました。これが最後です。でもこれは始まりです。聖母マリアの色のガウンを身にまとい、新しい扉を開けて、未知の世界にそれぞれ飛び立ってください。今からしばらくは、後ろを振り返らないで、前進あるのみです。では、行ってらっしゃい。
 神様の祝福が皆さんの上に豊かにありますように心からお祈りいたします。

2013年4月6日土曜日

ノートルダム女学院中学校・高等学校 入学式 学校長式辞


 新入生の皆さん、ご入学、おめでとうございます。保護者の皆様、本日はお嬢様のご入学、誠におめでとうございます。ご来賓の皆様、ご多用の中、本校の入学式にご臨席賜り、誠にありがとうございます。
 さて、改めまして、新入生の皆さん、私は、皆さんお一人おひとりを、ノートルダム・ファミリーのメンバーとしてお迎えできることを、心から嬉しく思っております。皆さんは、様々な道を通って、今、ここに集って来られました。私たちは、今日たまたま出会って、すぐまた散り散りばらばらになってしまうのではありません。これから私たちは、このノートルダムという家で、一緒にいろいろなことを学び、発見し、成長して行くことに招かれているのです。私は信じています。皆さんをここに招いたお方がいらっしゃるということを。「あなたの場所はここなのですよ、ここで一輪の美しい花となって咲いてください」と優しく導かれたお方がいらっしゃるということ、私は信じています。そのことを今日、あなたに伝えたいと思います。あなたが中学校の3年間、高校での3年間を、ここで喜びながら成長し、自分に何ができるのかを探し、自分の力を、自分の時間を、自分の命を、だれかのために喜んで使うことのできる人に成長していかれることを、だれよりも望み、それを待っておられるお方を、私は神と呼びます。
 
 ノートルダム女学院は、皆さんが生まれるずっと前、60年も前に、神が私たちを愛して下さっている、そのことに気づいてほしい、という熱心な思いひとすじで、アメリカからはるばる来られたシスター方によって建てられた学校です。それから60年、ただ神への熱い思い以外に何も望まず、人々、特に若い皆さんの教育に奉仕したいという、最初のシスター方のミッションへの熱意が受け継がれ、ノートルダム女学院をここまで成長させました。人々は、これをミッション・スクールと呼びます。ミッション・スクールである本校で、皆さんは、一人一人の人生の土台となる考え方や生き方を学びます。ノートルダムが、学校生活を通して皆さんにどうしても伝えたい、大切なことを、私は今日、皆さんにお話しましょう。私の今からの話は、二つの問いかけに応えることになります。一つめは、ノートルダム女学院は、どんな学校か、という問いかけです。そして、二つめは、ノートルダム女学院で、私たちは、何のために、何を学ぼうとしているのか、という問いかけです。

 ノートルダム女学院は、どんな学校か、この答えは、「みんな一人ひとりが、日々、愛することを学んでいる学校である」ということです。神に愛されて生まれた皆さんは、一生を愛されるだけで終わることは決してありません。いつかは、生きることの最終目標である、愛することのできる人になるように招かれています。けれども愛することは、決して簡単なことではありません。愛するとは、好きな人、気の合う人と仲良くするということだけではない。好きな人、気の合う人の数をどんどん増やしていくことだけでもありません。愛するとは、時にはそのために、自分の特別に大切なものを使ってしまわなくてはならないこと、意志の力が必要なこと、苦しいこともあるでしょう。でも、私たちが本当に愛することのできる人になりたいなら、神はきっと助けて下さいます。そして、あなた自身を、だれのために、どのように使っていくのか、必ず教えてくださいます。
それは、二番目の問いかけに応えることにもなります。この学校で、何を、何のために学ぼうとしているのか。それは、この学校がお手本にする、イエス・キリストの生き方です。そして、イエスのお母様であるマリア様の生き方に、深く関わります。すなわち、困っている人、弱い立場に立たされている人、助けが必要な人に、自分の大切にしている何かをそっとさし出し、その人のために生きる。ノートルダムで学ぶ皆さんは、神に導かれながら、一人ひとり、そのような人になることを学んでいくのです。皆さんの先輩である上級生も今、あらゆる機会を通してそのことを学んでいます。それは一生かかる長い道のりです。だから、実は、私自身も、先生方も学んでいます。職員の方々も学んでいます。「愛する」ことは、大人になったからといって、自動的にできるようになるものでは決してありません。ゴールに向かって失敗しながら成長を続ける中で到達できる、最高の目標だからです。ですから、この遠い目標からみれば、先生方職員の方々も、あなた方よりも少し前を歩んでいるに過ぎないのです。でも一歩の違いは確かに大きい、だから、皆さんは、教職員の方々から、上級生の先輩から、たくさんたくさん、学んでください。世界をもっと知ってください。困っている人々が、どこにいるのか探し出すためです。望まずして弱い立場に押しやられている人々が、どこで泣いているか、何に苦しみ、何を嘆いているかを知るためです。そしてこの宇宙は、どのようにしてでき、今どう成り立っているのか、この自然環境は、どうすれば保っていけるのか、人間同士ばかりでなく、人と自然は、どのようにしたら本当の意味で支え合い、健全につながっていられるのか、それらをしっかりと知るためです。皆さんがこれから、中学で、高校で勉強するのはこのためなのです。自分にできることをしっかりと見つけてください。それが「学習」の意味です。皆さんの、そして私たち全人類に課題として与えられている「学び」の真のゴールです。そして、このプロセスは、私たちを愛してくださった神に応えて、愛する人になっていくために必要な、ご自身への糧となるでしょう。ノートルダムの教育は、すべて、この「愛すること」に、向かっているといっても過言ではありません。
 新入生の皆さん、今日から、私たちはノートルダムという家族のメンバーとして、一つ屋根の下で、自分と他者を大切に慈しみながら、ご一緒に道を歩んでまいりましょう。神はいつも必ず、私たちと一緒に歩んでくださいます。神が共にいて下さることに信頼して、一日一日を丁寧に生きてまいりましょう。今日からの学校生活を通して、皆さんの上に、神様の祝福が豊かにありますようお祈りします。



2013年3月22日金曜日

ノートルダム女学院中学校 卒業式 学校長式辞


卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。
保護者の皆様、高いところからではありますが、本日はお嬢様の中学ご卒業、誠におめでとうございます。また、溝部名誉司教様、シスター和田理事長様を始めとするご来賓の皆様、本日はご多用の中、本校中学校卒業式にご参列いただき、誠にありがとうございます。

本日、皆さんは、3年間のノートルダム教育を終えられました。今年度2012年度は、ノートルダムにとっては、創立60周年の節目を迎えた大切な年でした。60年というと、皆さんの想像もつかない長い年月かもしれません。でも、この60年間、変わらずにノートルダムがいつの時代にも伝え続けてきたことは、やがて、ノートルダム女学院中学校の深い知恵の源となりました。卒業に際して、皆さんにもう一度それらを伝えます。ここにいる皆さんの大半は、さらなる3年間をノートルダムで過ごされますが、中には、ノートルダムを今日、出発するという方々もおられます。その方々も含めて、皆さんのかけがえのないここでの3年間の学びを、どうか、一生の糧にしていただきたいと思います。

この世界は、そしてこの宇宙は、すべてを超える大きな愛そのものである神によって創造されたと、ノートルダムはあなたに知らせてきました。愛によって創られないものは、命として存在することは決してありません。星も、海も、山も、草木も、花も、空の鳥も、地の動物たちも、そして、私たち自身も、生きとし生けるすべての命は、大きな愛によって創られ、だからこそ互いに連鎖し、つながり合って育まれ、成長し、そして、この世界での使命を得て、それを果たし、そしてやがては愛に帰っていく。かつて、朝礼の時間だったかに、あなたの命は、お父様、お母様、その方々のご両親、そのご両親と、さかのぼって一体何人の人々の存在によって可能になったのかという話をしたかと思いますが、それはそれはおびただしい人々が、あなたの命の存在のために深く関わり、その中の一人でも違っていたら、今のあなたは存在しませんでした。一つの命の誕生に、どれだけの人々の人生と、出会いと、生きざまが関わっているか、その気が遠くなるような、でも、真実の愛の連綿たるつながりこそが、神の愛の呼吸であり、神の愛の時間であり、神の愛の証しです。ですから一つの命はこんなに尊く、その存在はあまりにも重いのです。あなた方はお一人おひとり、ここノートルダムで、そのことをしっかりと学んでおられます。

あなた方の命は、この世に望まれて存在し始め、まだ15年ほどしかたっていません。ですから、ご自身に何ができるのか、ご自身の可能性はどこにあり、どこで花開くのか、それを今、皆さんは模索しています。一人ひとりは、神から使命を受け、それを果たし、神のもとに戻る、あなた方は、どうか神に聴いてください。「私に何を望まれていますか。私はあなたから頂いた命を、だれかのために、何かのために、どのように使えばいいのですか」と。どうかそれを、神との対話の中で心静かに聴いてください。それこそが、祈りです。神様は、あなたがそれを真摯に尋ねる時、必ず耳を傾けて聴いてくださり、そしてあなたに応えられるでしょう。神が直接、そのみ声でもってお応えになることもあるかも知れませんが、様々な人との出会い、言葉との出会い、出来事との出会い、それらの出会いを通して、神はあなたに語りかけられます。神は、あなたのために特別に用意されている時をお選びになり、その時でしか成し得ない出会いを与えてくださいます。どうぞ、その「時」に敏感に、そして与えられた「出会い」を神からのギフトとして豊かに受け止め、あなたの糧とし、成長を続けてください。

2年前の3月、日本中を、大きな哀しみと苦しみと、そしてそれを乗り越える強さへと導いた、東日本大震災。その時以来、人々は本当の対話の大切さに気づき始めたと言われています。そして本音で語り合うようになった。表面的、上面だけの会話や、その場限りのやりとりだけでやり過ごすには、人生はあまりにも不確実で、不確定である。また会える、また話せると思っていても、もう二度と会えないかも知れない。ありがとうと言いたい、ゆるしてほしいと語りかけたい、そう願っても、もう二度とそのチャンスは与えられないかも知れない。やりたいこと、やるべきこと、言いたいこと、言うべきことを先延ばしにして時間をやり過ごすには、それぞれに与えられた持ち時間はあまりにも短く、この世は不確実です。でも、人間の心と心のつながりは、そのような不確実な時間と空間の中で、愛に満ちた絆を探し求める存在なのだと、あの日以来、私たちは知り始めています。今、与えられているこの時に、本音で語り合い、心から対話し共感し合うこと、行うべきことを躊躇せず行うことが、どれだけ大切でかけがえのないことであるか、そのことをようやく、理解し始めた。これは、私たちに与えられた新たなる知恵であり、苦しみを越えて到達した真理でもありました。

今日で、ノートルダム女学院中学校での三年間を終え、新たなステージにさしかかろうとする皆さん、皆さんのこれからの青春の時間は、煌めく宝石のような時間です。それは意外に短く、でも想像しているよりははるかに、堅固な土台となって、今後の皆さんの人生を支えるものです。どうか、今のこのかけがえのない十代の青春の時間を、心を尽くして魂をつくして、神と他者と自己に誠をもって生き抜いてください。心から対話し、心から共感し、つながり合って共に生きる。すべてが失われても、最後に残るものは、そうやって培った心と心のつながりであり、神が最もお望みのことであるということを胸に刻んで、次の扉を開けてください。

神の祝福が皆様の上に豊かにありますように、お祈りいたしております。