2015年4月8日水曜日

ノートルダム女学院 中学校高等学校 2015年度 入学式 学校長式辞

ノートルダム女学院 中学校高等学校 入学式

栗本嘉子学校長式辞

2015年4月8日 挙行


新入生の皆さん、ノートルダム女学院中学高等学校へのご入学、誠におめでとうございます。保護者の皆様、高いところからではありますが、本日はお嬢様のご入学、誠におめでとうございます。今後、様々な場面で、保護者様のご協力を頂戴することと思いますが、その節にはどうぞよろしくお願い申し上げます。

そして、今日特別にご臨席いただいているノートルダム教育修道女会のセントラル・パシフィック管区のシスターメリーアンオーエンズ管区長様、シスターダイアンペリー評議員様を始めとするご来賓の皆様、本日は、お忙しい中本校入学式にお越しになっていただき、誠にありがとうございます。心より感謝申し上げます。

さて、改めまして、新入生の皆さん、ノートルダム女学院へようこそ。皆さんは今、一つのこの場所で、同じ制服に身を包み、私の話に耳を傾けてくださっています。私は皆さんをこのようにお迎えできて、本当にうれしいです。皆さんは、晴れて本日から、ノートルダム女学院中学高等学校という家族、ファミリーの一員です。ファミリーは、偶然寄せ集められた人々の集団ではなく、意味をもって集まった、つながりのある共同体を意味します。このファミリーでは、一人ひとりが自分を信じ、自分以外の人々のことをお互い常に思いやり、愛し合いながら、一緒に成長していきます。ここでは、自分が一人勝手に生きているのではなく、多くの人との、ひいては地球上のあらゆるものとのつながりの中で生かされていることを学びます。そして、そのつながりの根底に、命の源である神様がおられ、私たちをこの上なく大切にしてくださり、愛してくださっていることを確信します。中学生1年生は今から6年後、高校1年生は今から3年後には、18歳のノートルダム・レディーに成長し、神と他者と自己に誠実さと愛深さをもって生き、自分に与えられたミッション、すなわち使命とは何かについて、世界をビジョンにしっかりと考え、それに向かって勇敢に歩み始める女性へと成長を遂げられていること、これが、ノートルダム教育の目標であり、校長としての私の願いです。

皆さん、私は今日まで桜の花が残ってくれていたらいいなあと願っていました。でも、地球の営みの中で、木々は成長を続け、新芽が吹き出し始めています。間もなく、新緑の季節がやってきます。皆さんはお感じになりませんでしたか。この何千、何万という桜の花々が一斉に咲き始めた時、いったいどこにどのようにして、木々は、これらの花々の開花の準備をしていたのだろう。私たちが寒さに震え、木の様子をゆっくりと見上げることもなく足早に通り過ぎていったあの冬の日々に、木々の内側では、着実に花の命を育んでいたのです。3月になり、ふっくらと枝の先端が脹らみ始めると、私たちは気づきます。ああ、桜の季節がやってくる。自然界は、静かに、無言で、着実に生への営みを休むことなく繰り広げる。私は、これを「内側の力」と呼びたいのです。内側からの力は、このように迸るような勢いのあるエネルギーを、静かに、無言のうちに、しかしながら非常にダイナミックに放ちます。花々は、優しく美しく、私たちを元気づけ勇気づけ、慰めもしてくれます。そして、さらには自らを果実に変容させる力も秘めています。決して押しつけがましくなく、謙虚に一筋の気持ちで咲いている。「花はなぜ美しいか。一筋の気持ちで咲いているからだ」という詩を残したのは、私の好きな八木重吉でした。

花や木が内側の力を秘めているものの例えだとすれば、戦争や暴力、武器や軍隊は、「外側からの力」です。規則が強い力をもつこともあり、経済格差が否応なしに社会的弱者を作り出すこともあるでしょう。この内側の力と外側の力のことを、私に気づかせてくれたのは、サティシュ・クマールというインド生まれのイギリスの哲学者でした。彼は、自分の内側にはたらく力をパワー、他者への強制力となる外側の力をフォースと呼んで区別しました。しばしば外側の力は強く、怖く、弱い者を作り出す。自分の内側からの力は、可能性を引き出し、命を育みつなげ、豊かさをつくる。私は、彼がこう語るのを読んだとき、私の信じるイエス・キリストは、このような内側の力を漲るようにもつ存在だったのだと思いました。彼には、優しいパワーがあふれていた。そして信じる人の内側の力を最大に引き出し、治らない病を癒し、見えない目を治し、弱く貧しい人々に、生きる希望と勇気を与えました。イエスに触れた人々は、体験したことのない大きな愛を知り、自分に内側の力があることを信じることができたのだと思います。

私がめざしたいノートルダム教育は、神様の愛に導かれて、皆さんの内側の力を引き出すものです。引き出し、創り出し、より豊かになっていくことを助けます。一つ、大事なことは、皆さんに信じてほしいということです。皆さんご自身の一人一人の内側に、すごい力が宿っているということを、信じてほしいということなのです。その力が可能性です。その力が、厳しい冬を乗り越えて、色とりどりの花々を開かせる。見るものを慰め、癒し、勇気を与える花々を咲かせる。やがては、自分を変容させ、果実を実らせる。その果実は、弱い立場に立たされている人々の助けとなり、慰めとなり、時には栄養になるでしょう。ノートルダム教育は、あなたにそのような内側の力をもった人になってほしいと願っています。

今日から、このファミリーの一員となられた皆さんは、ここで、よい出会いをいっぱい作り、たくさん学び、いろいろな豊かな体験をして、どうか、素晴らしい花を咲かせる準備をはじめてください。神様は必ずそれを助けてくださいます。一緒に信じて歩んでまいりましょう。

神様の祝福が皆さんの上に豊かにありますように祈ります。

2015年3月20日金曜日

ノートルダム女学院中学校 2014年度卒業式 式辞

ノートルダム女学院中学校 卒業式 式辞

2015年3月20日 

学校長 栗本嘉子


卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。
保護者の皆様、高いところからではありますが、本日はお嬢様の中学ご卒業、誠におめでとうございます。また、溝部名誉司教様を始めとするご来賓の皆様、本日はご多用の中、本校中学校卒業式にご参列いただき、誠にありがとうございます。

本日、皆さんは、3年間のここ女学院中学でのノートルダム教育を終えられました。今日はノートルダム教育があなたに伝えたい最も大切なことの一つを、この節目の時に共有しておきたいと思いました。

2012年4月、私が皆さんを初めてこの場にお迎えした入学式、私は壇上からこのように申し述べました。すなわち、「私たちは、単に偶然に集まっているのではない。ご縁があって、このように一人ひとりが呼ばれ、道のりを経て、ここに姉妹として集まったのです」、このようにお話ししたことを憶えています。それから3年の月日がたち、皆さんはすっかりノートルダム・ファミリーの一員として、お互いの名前を何度も呼び合い、微笑み合い、時には議論し合いながら、支え合い協力しあって、この共同体を創ってきました。そうです。皆さんは、この共同体の一員として、かけがえのない、大切な存在なのです。神様は、皆さん一人ひとりを名前で呼ばれ、憶えられている。失ったら探し出すまであきらめられません。そのことがこの学校でも実現しています。

そして、皆さんは、一人ひとりを大切に慈しみ愛してくださっている神から、大きな素晴らしい可能性を与えられている、その可能性は、いつか開花することを待っている、しかも誰かの喜びや幸せのために使われるため、開花することを待っている、そのことを信じてほしいということです。そしてご自身の可能性は、他者と連帯することで、より一層にその輝きを増し、神様に祝福されます。そのことを強く信じてほしいということです。

皆さんは、これまでの学校生活の中で、他者、すなわち、お友達と関わり合い、つながり合うことで成し遂げたさまざまな場面を思い出してください。そのことが本当だったとおわかりになるはずです。文化祭、体育祭、また、グループ・ワークで一生懸命協力し、一つの作品を仕上げ、そしてりっぱにそれらを社会に発信しました。自分のもてるそれぞれの力を結集した時、想像を超える輝きとなってそれを解き放つことができたことを忘れないでおきましょう。

人間は確かに、一人では決して強くはなく、むしろ、弱くてもろい存在です。時には、完全に無力であるかのように見えることもあります。日本中が大きな無力感、哀しみ、そして苦しみに覆われた東日本大震災から今年で4年が経過しました。今でも尚、復興は途上であり、癒えることのない悲しみに向き合っている人々が多くおられることを、私たちは知っています。猛威を奮う大自然の前に、私たちは確かにあの時、無力であり、多くの命の犠牲の前に、ただ頭を垂れることしかできなかった。そのことは事実であり、人間の力の限界を見せつけられたかのようでした。しかしながら同時に、報道は時を追って私たちに知らせました。あの時、あの瞬間に、一人の人が示した勇気ある行動、一人の人がとった生きるための選択、寄り添って励まし合い作り出した温かさ、泣く人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜びながら、大き過ぎる試練の中で、それを乗り越えようと連帯し始め、目を見張るような力強さを示しました。

一人の高校生のストーリーを分かち合います。彼女はこの4周年の追悼式で、宮城県代表として追悼文を発表した方です。当時15歳だった彼女は、瓦礫に埋もれて動けない母親をどうしても助けられず、自分は見捨てて生き延びたのだと自責しながら、震災後、深く悩み苦しんだ人の一人でした。自分を責め、哀しみの癒えない彼女に、実に多くの方々が共感し励まし、国を超えてまでの対話を果たし、徐々に自分を受け入れられるようになり、そしてこのことで失ったものの大きさと同じぐらいの素晴らしいものを、自分はこれから得ていきたい、そして同じように苦しんでいる人々に自分の気づきを分かち合いたい、このようにお話しされていたのを聞き、私は人間とはなんと素晴らしい力をもっているのだろうと感動いたしました。苦しみをばねにして、一人きりではなく人々の連帯により、自分の存在を取り戻し、高く大きく成長できるようにどのような状況にあっても招かれているのだと感じました。

確かに私たちは、あの日以来、もろさや弱さという私たち人間の限界と共に、神の似姿として私たちに与えられている崇高さ、真実さ、気高さ、美しさ、強さ、優しさ、素晴らしいものを生みだしていく創造力も同時に与えられている。そしてそのこと故に、人間は連帯し合って決してあきらめず、希望を持って、試練を乗り越える勇気と力を頂いているのです。それは、神様が常に、あの時にも、私たちと共におられて、哀しむ私たちを慰めようとされ、一人ぼっちになってしまった人を探し出そうとされ、泣く人のそばでご一緒に泣いてくださっていたからだということを、私は強く信じています。

今日で、ノートルダム女学院中学校での三年間を終え、新たなステージにさしかかろうとする皆さん、皆さんのこれからの青春の時間は、煌めく宝石のような時間です。それは意外と短く、でも確かな土台となって、今後の皆さんの人生を支えるものです。どうか、今のこのかけがえのない十代の青春の時間を、心を尽くして魂を尽くして、神と他者と自己に誠をもって生き抜いてください。心から対話し、心から共感し、つながり合って共に生きる。すべてが失われても、最後に残るものは、そうやって培った心と心のつながりであり、それが神が最もお望みのことであるということを胸に刻んで、次の扉を開けてください。

神の祝福が皆様の上に豊かにありますように、お祈りいたしております。

2015年3月2日月曜日

ノートルダム女学院高等学校 2014年度卒業式 式辞

ノートルダム女学院高等学校
2014年度卒業式 式辞
学校長 栗本嘉子


卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。また、保護者の皆様、高いところではございますが、お嬢様のご卒業、誠におめでとうございます。六年間、三年間、ノートルダムの心に共感し、ご同伴頂き、誠にありがとうございました。パウロ大塚喜直司教様、シスターモーリン和田理事長様を始めとするご来賓の皆様、本日は、ご多用の中ご臨席賜り、心より感謝申し上げます。

さて、皆さんは第60期卒業生となられます。ノートルダムでの最初の卒業式から数えて今年が第60回になります。卒業生は1万人を優に超えました。皆さんは明日から、それぞれの社会の場、共同体の中で、ノートルダムの精神を生きておられる先輩方の仲間入りをされます。 18歳になられ、本日巣立った後は、神様によって置かれたそれぞれの場所で、ノートルダムの精神を豊かに、また創造的に生きてほしい。それが、私の最大の願いです。

ノートルダムの精神とは何だったのか。今日、巣立つ日に、今一度それを振り返り、皆で共有しておきたいと思います。いろいろな機会に、私はいろいろな表現で皆さんにお伝えしてまいりましたが、最後になる今日、これを校長からの「二つの願い」という形で、皆さんにお届けしたいと思います。

まず一つめの願いです。皆さんは、神からお一人おひとりに与えられた豊かで無限の可能性を強く信じてほしいということです。神の似姿に作られている私たち人間は、まず神から特別に愛され、慈しまれて命を与えられました。神から「生きよ」と言われ、私たちが命を受けた時、同時に一人ひとり個別に、その使命をも与えられました。ノートルダム女学院での三年間、六年間の教育は、その使命とは何かを探し求める旅路でした。あなたの素晴らしさが何であり、あなたはどのように人々や地球環境と関わり、どのような人間になっていくのか、その可能性を模索する旅路でありました。


私たちは、この地球共同体の一員として、お互いに支え合って生きています。聖書では、「一つのからだ」という言葉で、このことをわかりやすく私たちに教えます。「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶ」と書かれている箇所を、コリント書に見つけることができます。私たちは、自分の可能性を信じて、その開花を目指しながら一生懸命生きようとする時、神に属する者として、一つのからだの一部になり、その使命を見出すのです。その時、自分に与えられた使命は、自分の利益のためではなく、他者の幸福のためにあるということ、そのために不可欠なのは、対話の心と共感の感性であるということを、ノートルダムではあらゆる機会をとおして、皆さんに伝えてきました。どうか、これからも、無限の愛を注がれる神から頂かれたご自身の可能性の開花を信じ、世界でたった一つしかないご自身の賜物を見つけ、それを使って、他者の幸福のために生き抜いてください。

そして二つめの願いです。どうか、ノートルダムで学ばれた皆さんは、自ら行動し、神様の平和のつくり手になってください。「平和を求める祈り」を、毎日ともに祈ってきた皆さんは、「平和」の意味が、単に戦争の対義語としてではなく、私たち個人の選択から成るものであることをよくご存じです。その平和は、他者や世界に開かれたものであり、創造的に勇気をもって正しい方向を選択し、行動することであるということ、必要とされている人、必要とされている場所に自らを差し出すために、「出向いていく」ための心の平和であるということを、皆さんはノートルダム教育の中でしっかりと学ばれました。

教皇フランシスコは、そのご著書「使徒的勧告 福音の喜び」の中で次のように述べておられます。

「『出向いて行く』教会とは、門の開かれた教会です。隅に追いやられている人のもとへと出向いて行くことは、やみくもに世界を駆けずり回ることではありません。足をとめる、他者に目を注ぎ、耳を傾けるために心配事を脇に置く、道端に倒れたままにされた人に寄り添うために急用を断念する。(中略)私は出て行ったことで(中略)傷を負い、汚れた教会のほうが好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです」


昨年の待降節の雨の午後、校門前のマリア像のそばに皆で建てた白い四角柱、シャローム・ピース・ポール。そこには、赤い文字で、“Peace in our homes and communities” と書かれています。「私たちの家庭に、共同体に、平和があるように」という意味を込めて。シャロームという名が表すとおり、私たち一人ひとりが、神、他者、そして生きとし生けるすべてのものとの関係を、しっかりと神様が望まれるとおりに保っていること、そのために行動する、それを、自分の近くから始め、やがては地球共同体の平和に貢献するという決意。その象徴でした。学校の登下校時、このピースポールの前を通過するたびに、自分の心を調べ、平和のないところにそれを自ら作り出すことができる人になる約束を皆さんと共有しました。
私たちの生きる現代社会は、簡単に解決することができない難しい問題が山積しています。グローバル化する世界にあって、テロの恐怖、資源の枯渇とその奪い合い、富の不平等、貧富やそれに伴う教育機会の格差、地球環境の悪化など、一言でいえば、私たち被造物の命の存続に対する脅威に押しつぶされそうです。一人の力ではどうしようもないように見える、圧倒的な負のスパイラルです。これに、いったいどのように、立ち向かっていけばよいのでしょう。

人間がおごり高ぶることをやめ、自分たちの限界を受け入れ、憎しみや復讐の気持ちを和らげ、愛と許しの心でお互いを尊び、対話を深め、ともに命の方向に向かうことは、この負のスパイラルに対して、平和のスパイラルを生み出すことになります。そして、今こそ、私たち女性がまず、神がくださった命の尊さ、育む喜び、命がつながっていくことへの希望を確信し、その喜びと希望を生きながら、それを次の世代に伝えていく役割を担っているように、私には思えてなりません。

卒業生の皆さん、このように私がこの壇上から皆さんに向かってお話しすることも、もうこれが最後になります。申し述べた校長の二つの願いをどうか心に刻んで、世界の海原に向かって勇気をもって漕ぎ出してください。神様は必ず、あなた方と共におられ、どのような困難があっても、それを乗り越える強さをあなたがたに与えられるでしょう。しばらくは、母校を忘れてしまうほどに、一人ひとりが置かれた場所でご自身の賜物を見出しながら精一杯働き、神の平和の作り手として生きてください。

神様が皆さんの前途を豊かに祝福してくださいますように祈ります。