英国の子どもたちに見た「存在の対等性」について、彼らが発する言葉から切り込んでいきたいと考えました。なぜならば、言葉が一人の人間の成り立ち、存在に占める割合はあまりにも大きく、その人が何を話すか、どのように話すかは、その人そのものを如実に表します。そしてパーソナリティーにも深く関わっています。それは個人を超えた一つの文化に置き換えても同様のことは言えます。すなわち、言語が先か文化が先かは議論がなされるところですが、言語が文化を形作り、文化が言語を生み出すということは、地球上あらゆる社会文化の中で言うことができます。
一方、この世界において、「母親たち」とはどんな存在でしょうか。生まれた子どもたちが、だれよりも最初に大きく影響を受ける存在であるといって過言ではありません。生物学的にも、社会的にも、人は多様な角度から形成されながら、一人のパーソナリティーをもった人格へと成長していくわけですが、そのプロセスで、母親の存在、あるいは、母親に代わる存在は必要不可欠です。したがって、どのような社会文化の枠組みで成長したとしても、最も影響力が大きい母親(あるいは母親に代わる保護者)の言語というものは、その個人独自の限定版であると同時に、世界で普遍的であるという言い方ができます。
ところで、英国での一年間、息子たちを地元の公立小学校に通わせたことで、私は人との出会いについて、期待以上の大きな恵みを頂くことができました。レディング大学博士課程で研究をスタートした私に与えられた研究仲間は、今でも貴重な友人となっていますが、それに加えて、私たちの住まい半径1km以内に、よく似た年齢の子どもたちをもった英国の母親たちの友人を多く得ることができたことは貴重な体験でした。このことは、私にとって、日本と英国の文化差を乗り越えたユニバーサルな「母親」というもの、そして、文化という枠組みのプロトタイプとしての「母親」、その両者について時間をかけて考えるきっかけを生み出すことになったのです。
英国滞在中、私は母親と子どもの関わりを多く見てきました。どのような言葉をどのような状況でかけるのか、それを注意深く見ていくうちに、日本の母親たちと普遍的な共通点があると同時に、英国独自のものがあることに気づき始めました。その気づきの多くは、実際の生活の場面を通して得たものでした。二つの国の母親たちは、どんな言葉かけを行いながら一つの問題をクリアしていくのか。いよいよ、この中身については、来週11日の家庭教育講座の中で、英国と日本で収集した実際の研究データを用いてご紹介していきます。
どうぞ お楽しみに。